立政寺
創建は1353年、立政寺と書いて「りゅうしょうじ」と読みます、山号は亀甲山、寺号は正しくは護国院立政寺。
智通光居(ちつうこうご)上人が修行の途中、この西荘に仏法勝縁の霊地を感じ杖にしていた桜の枝を差し、松の実を植えて行かれた。
十数年後再び立ち寄ると、杖の桜から枝葉が茂り、松も緑濃く成長していた。
松は開山松、桜は枝松と言われました。
上人は西荘に留錫を決意して、杖松の枝の下で座禅を組むこと70日ついに念仏道場を建立させた、施主は薮田や鏡島の近郊の地頭や村人でした。
後光厳(ごこうごん)天皇が戦乱を避けて西美濃の小島里を行宮された時、朝廷の開運と政務成立を祈祷(きとう)すると、霊験あって間もなく京都に還御された。
「立政」の寺号は開運を嘉(よみ)して天皇から賜ったものです。
この寺は美濃、尾張、伊勢、近江、信濃までにおける浄土宗西山派の中心寺院として栄えました。
明智光秀と細川藤孝の仲介により、織田信長公が戦国最後の将軍となった足利義昭を迎えた歴史上の重要な舞台にもなりました。
永禄11年(1568)7月、織田信長公の援助により足利義昭は上洛することになります、越前を出発し途中信長公の妹(お市の方)婿である浅井長政の居城小谷城に立ち寄り、明智光秀らの出迎えを受け7月22日立政寺に到着しました。
このとき、信長公は義昭に銅銭・太刀・武具などを進呈した、この後信長公は9月26日義昭を奉じて待望の上洛を果たすことになった、10月に義昭は信長公の奏請によって足利幕府第15代の征夷大将軍になった。
壇林(学問所)・中本山・准門跡の法脈を継承し織田信長公はじめ、足利義昭・徳川家康などの来訪や、中世文書を有する寺院として著名であるそうです。
土佐藩主山内一豊や落語の祖安楽庵策伝のゆかりの寺院であり、智通光居上人の墓も境内にあります。
また寺内には、絵に描かれた阿弥陀如来像など古い絵画類も多数所蔵されています。
JR西岐阜駅より北へ徒歩約5分、住宅地の中です。

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NHKのドラマ麒麟が終わりました 足利義昭将軍が織田信長を頼って美濃の立松寺に行きましたが 立松寺に行く前には安養寺に滞在しておられました そこで史実にはありませんが どうも当時の安養寺の住職が織田信長の所に行くのなら 明智光秀ににも言って 同じ宗派である美濃の立松寺を紹介したのではないかと思いますがどうでしょう 当寺と立松寺の関係からもかなり信憑性が有ると思います