崇福寺
「安禅はかならずしも山水をもちいず心頭滅却すれば火自ずから涼し」 この言葉を聞いたことあると思いますが、美濃の国の生まれで快川紹喜(かいせん じょうき)の言葉です。
戦国時代の臨済宗の僧侶で、この崇福寺の職を務めた岐阜にゆかりの僧です。
崇福寺に61歳まで住し、甲斐の武田信玄に招かれ塩山恵林寺に入寺した、その後織田信長公の甲州攻めにより敵対する武将をかくまい、織田信忠の引き渡しを拒否したため焼き討ちにあい一山の僧と共に焼死した。
そのときこの名言を残したとされています。
何の因果か分かりませんが、この崇福寺は織田家の菩提寺となってます、信長公が岐阜に入るとすぐに禁制を出してこの寺を特別に保護しました。
毎年信長祭りの時、この寺で信長公の供養が行われます。
この寺には織田信長公、嫡男信忠親子が明智光秀に本能寺の変で討たれ信長の側室が信長公の首級を岐阜へ持ち帰り葬った父子廟があります。
位牌型の石碑に縦に分けて父子の法名を左右に並べて刻んであります。
墓地値の横には位牌堂というものがあって宝形堂葺屋根木造彩色の小堂に父子の位牌が安置されているそうです。
本堂裏にあります、岐阜市史跡になっています。
本能寺の変を触れましたが、最初に記しました快川紹喜は俗姓は土岐氏で、明智光秀も同じく美濃国の土岐氏出身であります。
そのため同族であり、本能寺の変において明智光秀が織田信長・信忠父子を討ち取った事件に、彼の死が影響したとする見方をする人もいます。
織田信長公は岐阜に来て楽市楽座等の制度を取り入れ善政を敷いた、またポルトガルの宣教師を招いたように外国の文化にも興味を持ちました。
ポルトガルより寄贈された檜時計がこの寺にあります、文字盤は日本に持ち込まれてから取り替えたものだそうです。
その他、信長公筆の書や関連のものがあり展示されています。
また、国重要美術品や聖徳太子ゆかりの仏像などありますが、非公開なものがありますのですべては見られません。
本堂前の天井には、血天井があります。
関ヶ原の戦いの前哨戦に置いて、信長公の孫秀信は西軍に属し東軍の攻めに岐阜城が落城した時戦死した兵の霊を弔うため、城の床板を天井に張ったもので、血痕が付着しています。
織田信長公ゆかりのお寺を訪れてみませんか。
岐阜駅よりバスで約20分、長良川国際会議場前・長良川国際会議場北口下車すぐです。
拝観料大人150円 小人100円です、駐車場もあります。

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