
南泉寺は永正14年(1517)に当時の守護土岐政房(頼芸(よりのり)の父)が仁岫宗寿を招いて、土岐氏の菩提寺として建立されたお寺です、土岐家当主は代々このお寺の住職から様々な学問を習い覚えたと伝えられています。
数多くの寺宝が残されていますが、その中でも重厚な風格のある山門は必見です。

その他の伝えには土岐頼純(よりずみ)が南泉寺を恵解寺という寺院の故地に開いた、とあるのもあります。
この土岐頼純が帰蝶の夫です、織田信長公に嫁ぐ前に嫁いだとされています、大河ドラマ麒麟がくるにはその設定になってました。

土岐頼純は守護となって1年余り後、天文16年(1547年)11月17日急死したとされています。
享年24歳、おそらく道三公の手にかかって殺害されたものであろうとされています、大河ドラマでもその設定でした。

ただし、土岐家譜では、享年49歳となっており、法名も南泉寺殿玉岑珪公大禅となっているそうです。
父・頼武(政頼)の別名が頼純とも言われており、また頼武の享年が49歳前後とされるため、おそらく土岐家譜で享年49歳となっている頼純は、父・頼武のことだと思われるそうです。

初代の仁岫和尚の後を継いだ名僧「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」の遺言を残した快川和尚もここに居て法門を説いていました。
名僧、快川和尚・大愚和尚の肖像画、土岐頼純の肖像画、土岐頼芸が描いた鷹の絵など、このころの歴史や文化を知る貴重な手掛かりとして、指定文化財にされて保存されています。

3世状元祖光、4世智門玄祚、5世大愚宗築(諸相非相禅師)と続き、 5世の大愚宗築は東京都日暮里谷中の南泉寺や京都市上京区の法輪寺を開くなど広く影響を遺したそうです。
寺内には大桑城の戦いの戦死者の慰霊碑がある、タイトルにした土岐頼純の墓もあります。

南泉寺の場所は、四国山香りの森公園北側です。

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