
住所:岐阜市城田寺1821
ジャンル:名所、神社・お寺
舎衛寺(しゃえいじ)(山号は尤勝山)は岐阜市城田寺にある真言宗御室派の寺院で、船田合戦終焉の地の碑があります。
寺に伝わる縁起によると寺の草創は古くその時代は明らかでないそうです、濃州方県郡城田寺とあるが如く往古は城田寺と称してました。

神亀2年(725)白山権現を寺の鎮守として境内に勧請して以来、貴賤の人々が集まり城田寺村が形成されました。
神亀5年(728)五大堂の峰に紫雲たなびき光明が輝いて南都の王宮を照らし、不思議に思われた聖武皇帝は勅使を派遣し、光の出づる巌窟を掘った所手のひら程の小さな金銅釈迦の霊像が出ました。

それを等身釈迦の体内に納め、このことを大変喜ばれた天皇が多くの免田を寄付され、天平元年(729)には聖武皇帝の勅願寺となりました。
平安時代前期の天慶5年(942)に天から舎衛国と書かれた旗が降り落ちてきたため、その奇瑞により城田寺を改め舎衛寺と命名したそうです。

保元元年(1156)には後白河天皇の発願により阿弥陀如来と薬師如来が納められたと伝わってます。
戦国時代の明応4年(1495)に起きた船田合戦で土岐成頼は当寺で出家し隠棲を余儀なくされ、その翌年に船田合戦の決戦である城田寺城の戦いで焼失して現在地に再建されたそうです。

文化財として県重要文化財に、木像釈迦如来坐像、金剛割五鈷杵が指定されていて、市重要文化財に、絹本著色妙観察智弥陀像、舎衛寺縁起及び両界念誦次第が指定されてます。

木像釈迦如来坐像、結跏趺坐(けっかふざ)の姿で彫り出されている一本造りの像、江戸時代に修復の跡が有るものの量感豊かな体躯や衣文の表現など、平安時代中期の特色を残しています。
金剛割五鈷杵、聖武天皇御願作と伝わる金属製の五鈷杵、総長16センチ鋳銅鍍金(いどうどきん)製で製作は鎌倉時代末期と推定されます。

絹本著色妙観察智弥陀像、絹地に彩色を施したと言う舎衛寺の作品は、宝冠に五体の化仏を戴き、仏身は金泥で描かれています、室町時代前期の作品と推定されています。
他本堂内にはいろいろ像が祀られていて、徳川家康の位牌もありました。

岐阜大学より東に1キロくらいの位置にあります。


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