中山道伏見宿
中山道伏見宿は、中山道50番目の宿場です。
場所が変わったと言うのは、もう少し木曽川の下流に土田宿がありましたが、川の氾濫で廃宿になり上流の伏見に1694年(元禄7年)伏見宿がに誕生しました。
1604年(慶長7年)の御嶽宿に対しては、新しい宿といえます。
尾張藩領だった1843年当時人口は485人、家数82軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒の宿場でした。
宿場の入り口付近に見付がありますが、ここは国道の整備で古い町並みなどあまりありません、西側から入り道標からの案内になります。
ガソリンスタンド脇に道標があります、右太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル、書かれています。
ここの北側木曽川ですが、新村湊跡があり水運で賑わった場所と思われます。
道標から東に進むと、旧旅籠三吉屋があり昔の佇まいが感じられるところに出ます。
お休み処らくだと表示されているところがあります、らくだって砂漠にいるらくだのことです。
1824年(文政7年)に、伏見宿にらくだがやって来てます、幕府献上品として輸入したらくだが幕府から断られ、興行師の手に渡って伏見宿で3日ほど滞在したのだそうです。
次に伏見交差点まで来ると宿場行灯があります、その北側に一本松公園があります、トイレや四阿の立派な休憩所もあり、旅人を癒します。
観光案内的な看板が四阿内に貼られています。
ここにも道標が設置されている、右御嶽左兼山八百津と書かれています、ここは斎藤道三公の養子である斎藤正義が築いた兼山城へ至る兼山道との追分でもあります。
東に進み伏見公民館のところに本陣之跡があります。
土田宿より新設された宿場で大きく発展することはなかった、1848年(嘉永元年)に本陣はじめ26戸を焼失する大火が発生したが、その後本陣は再建されることなく明治維新を迎えています。
本陣跡碑の隣に「是よ里東尾州領」(右)と刻まれた領界碑が建てられている。この領界碑はもともとここにあったのではなく西坂から移設したもの。
それからしばらく東に行くと比衣一里塚跡碑があり、この辺りまでが宿場内と言えそうです。
また、伏見宿の近隣に臨済宗妙心寺派の洞興寺があり、伏見宿の名残として飯盛り女たちを亡骸を葬った女郎塚があります。
引き取りてのなかった彼女たちのそれぞれに表情凝らした墓石群が哀愁を漂わせています、隣には子安観音が奉られています。
伏見台地の南側の田園を見渡せる場所に東寺山1号墳と2号墳があります。
1号墳はもともと前方後円墳であったようだが、現在は南側が削り取られて円墳のようになっています。
2号墳は岐阜県下で唯一、全国でも数少ないといわれる前方後方墳です、この古墳からは三角縁変形神獣鏡が見つかっており、奈良天理市の柳本古墳群の天神山古墳から出土した神獣鏡と同じ同型ではないかといわれてます。
最寄駅は名鉄広見線明智駅で、駅より北に向かいます。

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