村國眞墨田神社
タイトルで各務原金幣社④としました、いきなり④ですが前に3ヶ所レポートしています。
各務原市内の金弊社五社があります。
五社とは、那珂手力雄神社・加佐美神社・村国神社・村國眞墨田神社・御井神社です。
金弊社とは、元来明治2年に全国の神社は、県社・郷社・村社に分けられましたが戦後になって、全国の神社を一律に平等に扱うことになり、この制度は廃止されました。
ところが、岐阜県においては古川の上杉一枝氏が岐阜県の代表になられたときに、社格が一律なのはおかしいということになり、金弊社・銀弊社・白弊社・無格社の4つに分類されました。
この制度はどうやら岐阜県だけのもののようです、分類の一つということだそうです。
由緒由来は岐阜県神社庁の記述によると。
村國真墨田神社は、美濃國一宮の南宮大社(不破郡垂井町)の主神金山彦命(かなやまひこのみこと)と、尾張一宮の真清田神社(愛知県一宮市)の主神天火明命(あめのほあかりのみこと)。
さらに後になって、この地を支配していた地方豪族村國氏の中より、天武元年(672)に起こった壬申の乱の際、大海人皇子(おおあまのおうじ(天武天皇))に味方して功績をあげた村國男依(むらくにのおより)を、その後祭神として合祀し古くから鵜沼の地の産土神として里人の崇敬を集めていました。
その社名は、十世紀初頭の法典である延喜式の中の一巻である神名帳の中にも見出される、美濃國式内社の一社であります。
また、当時の神社は現在の場所から数百メートル南の木曽川ぞいに有ったと伝えられ、その場所は現在は御旅所となっています。
時代は下って戦国時代になり、神社は当時の武将大沢氏一族の守護神となり、その居城鵜留摩(うるま)城(現鵜沼南町城山)の外堀外部に位置していました。
永禄年間(1558-1570)織田信長の美濃侵攻によって大沢氏は城を追われ、鵜沼地方は織田家領となりました。
更に天正十二年(1584)小牧長久手の戦いにおける羽柴秀吉の犬山攻めに際して、この地の有力者であった河村惣六なる人物が秀吉に協力して恩賞を挙げた折、許可を得て現在の場所に神社を遷宮し現在に至っています。
祭神は、天之火明命(あめのほあかりのみこと)・金山彦命(かなやまびこのみこと)・彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)・罔象女命(くらおかみのみこと)・村国男依(むらくにのおより)です。
境内には、護国神社・金毘羅社・稲荷神社・恵比寿大黒社・末社六社(天満社・秋葉社・雨之宮社・山神社・洲原社・御鍬社)があります。
各務原市鵜沼地区の産土神とされています。
JR高山本線鵜沼駅より、名鉄犬山線・各務原線新鵜沼駅より徒歩約5分で行けます。

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