中山道垂井宿
中山道57番目の宿場①からの続きです。
本陣跡から西に行くとすぐに交差点があり、そこに鳥居が立っています。
南宮大社大鳥居です、この道を南下すると南宮大社に着きます。
寛永19年に徳川家光の寄進で南宮大社が再建されました、その時に400両で建てられたそうです、その時の400両というと、今の2千万円~3千万円だそうです。
南宮大社に向かう途中に垂井の泉があります、岐阜県の名水50選に選ばれた由緒ある湧水です。
この泉古くから和歌に詠まれ垂井の地名はここから生まれたと言われてます。
北上して中町あたりを北西に行くと、竹中半兵衛陣屋跡に向かいます。
街道に戻り西に進むと、古い建物が出てきます。
長浜屋、江戸時代は旅籠屋で築200年以上の建物です、取り壊される寸前に歴史と文化を守る会が管理することになり、お休み処として使われています。
小林家、江戸時代は油屋で明治から亀屋という旅籠でした。
土蔵づくりの軒下には火事の延焼を防ぐ濡れむしろを掛ける釘があるそうです。
国登録有形文化財に指定されています。
高礼場跡があります、本龍寺山門前に横幅約5m、高さ約4m、奥行き1.5mのサイズだったそうです。
本龍寺は松尾芭蕉が奥の細道の後2年後にここを訪れ、滞在し冬篭りをしたそうです。
江戸末期芭蕉を記念して時雨庵を建てました、山門は脇本陣から移築したものです。
「作り木の 庭をいさめる 時雨かな」と詠んだ句碑があります、句碑は文化六年の建立で、芭蕉木像もあります。
そして前川に架かる前川橋の手前に西の見付があります。
安藤広重の版画の絵は、ここから西を見た風景を描いています。
東の見付から西の見付まで776メートルが垂井宿となります。
垂井祝は、西町・中町・東町の3町に分かれて本陣は中町にありました、問屋場は3か所ありました。
毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大勢の人で賑わい、大垣・墨俣などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、西美濃の交通の要衝でありました。

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