久運寺
曹洞宗 久運寺、創建は文明元年(1469)で東側には加納天満宮があります。
天正年間(1580)頃の仮名草紙「因果物語」には不思議な鶏の寺として紹介されています。
因果物語(いんがものがたり)江戸前期の仮名草子、鈴木正三作、寛文元年(1661)仏教の因果話を中心に、諸国の怪異・奇談を談義調でつづったものです。
仮名草子(かなぞうし)とは、江戸時代初期に仮名、もしくは仮名交じり文で書かれた、近世文学における物語・実用的な文章を総称したものです。
また、江戸時代には、毎年新茶の季節になると献上茶を入れた茶壺を駕籠(かご)にのせた、華麗な行列が京都の宇治から江戸間を往復していました。
人々はこれを「お茶壺道中」と呼び、大名や沿道の人びとに恐れられていました。
寛文5年(1665)、加納藩主の松平光重公から久運寺を、お茶壷道中の本陣とするよう命じられましたが、住職がこれを拒否したため追放されてしまったそうです。
お茶壺道中は、行列の格式は御三家の行列をも上回ったそうです。
茶壺の行列がやって来る前には街道筋の人々がかり出されて道の修繕や清掃が行われ、その行列に行き合ったら諸大名以下庶民に至るまで土下座して道を譲らなければなりませんでした。
ささいなことで罰せられたり、過怠金を取られたりすることもあったため、沿道の関係者はたかが茶壺のためにあれこれと気を使わされました。
その模様を唄ったのが、ずいずいずっころばしだと言われています、別の説もありますが。
ずいずいずっころばし、ごまみそずい、ちゃつぼにおわれてトッピンシャン
ぬけたらドンドコショ、たわらのねずみがこめくってチュウ、チュウ、チュウ、チュウ
おっとさんがよんでもおっかさんがよんでも、いきっこなしよ、いどのまわりでおちゃわんかいたのだあれ
お茶壺道中を家の中で静かにやり過ごすありさまで、ごまみそ和えを作っていたらお茶壺道中が近づき、扉を締め粗相の無いように細心の注意を払って、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた、そしてお茶壺道中が通り過ぎるとやっと一息つけた家の中で息を潜めていると、米を食べるネズミの鳴き声や、井戸の近くで茶碗が割れたような音まで聞こえてくる。
久運寺とお茶壺えお調べると、ずいずいずっころばしが出てきます、これも住職が道中の被害にあったからなのですね。
境内には加納藩主の墓もあるそうです。
現在の久運寺は、境内の一部が駐車場に使われています、本堂も大きくなくこじんまりしています。
お茶壺道中ゆかりの寺跡の碑がその名残を表わしているだけです。
JR岐阜駅南口より南東へすぐです。
加納天満宮を目指して行くと分かりやすいです。

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