金華山
昨年2月7日岐阜城跡は国史跡に登録されました。
金華山一帯、伊奈波神社の北側、岩戸公園の北側、達目洞を除く辺りの209ヘクタールの場所です。
国史跡とは、日本の歴史の正しい理解のために欠くことのできない遺跡のことです。
「岐阜城跡」として、現在の岐阜城は入っていません、建物ではなく場所として史跡となりました。
岐阜城は、山頂の城郭部分と山麓の居館部分に分かれた構造をしており、登城路で結ばれてました。
登城路は登山道として現在に受け継がれており、見通しの良いところには、砦があったようです。
登山道も荒れたり危険なところなどは昔とは違ったところになっている所もあります。
金華山は傾斜が急な山ですが、この自然地形自体が防御の役割を果たしていたのでしょう。
そう考えると、山全体が城であったと言えます。
国史跡として、昔の物が残っているのか探して見ましょう。
登山道を登っていくと砦があったような場所が分かります。
昔より現在のほうが木々は生い茂っていて見通しが悪いところがありますが、ちょっと広くなっているところ、お城から見えるところなどの場所です。
砦が分かりやすいのが、めい想の小径です。
長良川沿いで少し広くなっているところなどに石積の後があります、ほとんどが撤去しているところもありますが残っているところがあります。
石を組んだりして砦が作られていたことが分かります。
金華山は岩の山です、チャート式の岩で出来てます。
砦の大き目の石は金華山で採掘した石と分かります、また小さな石もガタガタになっていてそこで割ったか削ったかがうかがえます。
しかし、登山道を歩いていると、丸い、いわゆる川石を見つけることが出来ます。
山にはあるはずの無い石です、人為的に持ってこられたと推測が出来ます。
めい想の小径を登って中間辺りの森の中で見つけることが出来ます、この辺り古地図を見ると米蔵と記されています。
現在の地名でも米廩谷洞となっていて、昔米蔵があったとうかがえます、川石は米蔵の擁壁などの裏込めいしに使われた可能性があります。
そんなことを想い登山するのも良いでしょう。
現在の岐阜城は国史跡に入ってないと書きました、昭和31年に作られた鉄筋コンクリートですから。
ただし、城の石積の一部は戦国時代からのもので史跡です。
積み方や色が違うのですぐに分かると思います、城のところもそうなんですが、ロープウェイ側よりお城に通じる通路の下に石積があります、これも戦国時代からのもので歩いていると気が着きませんがのぞいて見て下さい。
戦国時代からあるということは、織田信長公も触ったかもしれません、触ってみましょう(笑)
切通とか堀切と呼ばれているところがあります、敵を防御するところで防御の要だったところが分かります。
このように金華山岐阜城跡は日本の歴史上大切な場所ということです。

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
岐阜のまちをのんびり歩いて楽しんでいただける、観光名所・岐阜のグルメスポットを普通のおじさんの目から案内します。
コメントを残す