西方寺
岐阜名産の雨傘と提灯を作る家の多い田舎町の澄願寺には、門がなかった。
道に立ち停って、境内のまばらな立樹越しに奥を窺っていた朝倉が言った。
「みち子がいる、いる、ね、立っているだろう。」
私は朝倉に身を寄せて伸び上がった。
ノーベル文学賞作家川端康成の短編小説「篝火」の冒頭です。
この澄願寺が、岐阜市加納にある西方寺です。
西方寺浄土宗知恩院末、写真で見ていただくと分かりますが、この寺の後方に駅前のシティタワーが見えます。
岐阜駅より南へ徒歩約10分くらいの位置にあります。
ぎふ・いざナビ(携帯で音声ガイドを聞くことが出来ます)では、川端康成がここのお寺を説明しています。
川端康成です。
大正10年(1921)、23歳の私は、東京から岐阜へやって来て西方寺の養女として暮らしていた伊藤初代さんに会うために、友人を伴って二回にわたってこの寺を訪れました。
お寺では住職と碁をうち、昼食をごちそうになりました。
当時の寺は第二次世界大戦の空襲で焼け、現在のこの寺の本堂は昭和30年(1955)に建てられたものです。
と、説明しています。
小説の冒頭の私は、川端康成です、みち子と小説には書かれていますが、説明にあった伊藤初代さんです。
ナビの説明では、会うために岐阜に来たとありますが、結婚を申し込むために来たのです。
東京の学生であった川端康成は友人達と出かけたカフェで、7歳年下の女給伊藤初代と出会う。
翌年その店は閉鎖され、初代は岐阜の西方寺に養女として預けられる、そして康成は岐阜に訪れることとなる。
小説には、西方寺のある加納から柳ケ瀬、写真を撮った現在の市役所前、金華山、宿を取った長良川沿いなどが書かれています。
結婚を申し込んで、「貰っていただければ、私は幸福ですわ」と了承したのですが、破談となり康成の恋は実りませんでした。
岐阜を訪れたその2年後、伊豆の踊子が発表されます、その踊子を初代の面影に重なり合わせたと言う人も居ます。
岐阜での体験が、川端康成の作品に根元的な物を残したことになります。
そんな岐阜の物語の始まりが、この西方寺です。
田舎町の澄願寺(西方寺)は、今は住宅に囲まれた中にあります。

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