願成寺
願成寺(がんじょうじ)は、真言宗智山派の寺院である、山号は如意山。
本尊は十一面観音で、美濃三十三観音霊場第十六番礼所、美濃四国札所十九番になってます。
天然記念物の中将姫誓願桜がある。
寺伝によれば、672年(天武天皇元年)の壬申(じんしん)の乱にて大海人(おおあま)皇子の勝利に貢献した美濃国の豪族、村国男依(むらくに の おより)が、大海人皇子より授かった観音像を美濃国芥見の地に祀ったのが始まりとされてます。
この観音像は、欽明(きんめい)天皇の時代、高句麗から伝えられた像という、インドの彫刻の神様が作ったという十―面観音の小像です。
721年(養老5年)、越前の国から来た泰澄により、現在の地で大洞山清水寺に改称される。
743年(天平15年)、奈良の大仏造立の為どうしても鋳造の技術を持った専門家が必要であり、天皇はそうした人材を捜し出してくるように、一人の家臣に命じ全国を周り、優れた仏師を探すための使者が清水寺に滞在しました。
観世音菩薩に必死の祈りを捧げました、そして夢に観世音菩薩が出てきてお告げを受け、それにしたがって出逢ったのが日野金丸(ひのかねまろ)という童子でした。
日野金丸については、前にレポートした護国之寺をご覧ください。
やがて大仏が完成し、天皇はこれもみ仏の御加護と感謝し、この寺に改めて「如意山願成寺」という勅号を与え、行基(ぎょうき)に伽藍(がらん)の建立を命じられました。
そこで行基は1メートルほどの十一面観音橡を造って、今まで祀っていた観音小像と仏舎利をその胎内仏としました。
これを本尊として七堂伽藍を造営し、さらにその付近には願成寺の下寺として12の寺を建てたそうです。
756年(天平宝字8年)に、中将姫が継母の迫害を逃れてこの美濃の国へたどり着きました。
中将姫は心労と長旅の疲れで、婦人病にかかり困り果てて願成寺に参詣し、本尊の観世音菩薩にその治癒を祈りました。
そして病気はたちまち治り、感謝の証として桜を植え、後の世の婦人たちの守りとなるよう誓願をこめて祈られました。
これが中将姫誓願桜で樹齢1,200年程度とされており、今でもこの桜に祈ると婦人病に効くといわれています。
1929年(昭和4年)に国の天然記念物に指定され、樹高8.1mで幹径150cm、20~30弁の花弁を持った淡い桜色の花を咲かせます。
937年(承平7年)に寺は焼失、幸い仏像などは残ったそうです。
鎌倉時代に再建され、再び大規模な伽藍の寺院となりました。
しかし、1567年(永禄10年)、織田信長公の稲葉山城攻めの際、斎藤龍興の軍勢の一部が願成寺に立てこもり、願成寺は信長軍により取り囲まれ全焼する。
その後寺は荒れましたが、1653年(承応2年)に神光寺(関市下有知)の僧・宥遍上人によって再興され、1689年(元禄2年)願成寺は新義真言宗智山派の寺となりました。
寺にある県指定文化財には本尊の十一面観音像の他大日如来像・阿弥陀如来像・木造金剛力士立像・鰐口などがありいずれも鎌倉時代の作であります。
JR岐阜駅より、岐阜バス大洞緑団地行きで約30分「光輪公園口」バス停下車徒歩約10分のところです。

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