加納天満宮
加納天満宮、前回のレポート忠節天神で書きましたとおり、斎藤利永が土岐家に仕え、守護代となり、厚見群沓為郷(加納)に城郭を築き、その城内に1445年天満宮を造営された、これが加納天満宮です。
その後城主斎藤道三公が稲葉山城に移り、沓井城が廃城に成りましたが、天満宮は住民たちによって守られました。
関ヶ原の前哨戦で岐阜城が落城し、徳川家康が加納城を構築した際、天満宮が城郭内に入ったので現在の場所に移しました。
加納城初代城主奥平信昌、正室亀姫(徳川家康の長女)をはじめ住民の信仰は篤く、今に受け継がれています。
しかし、1891年(明治24年)の濃尾地震の時に被害を受け、太平洋戦争昭和20年7月9日の岐阜空襲によって本殿等が焼失しました。
1948年(昭和23年)に本殿を再建しました、このころ、加納天満宮と改称しました。
現在の本殿は2003年(平成15年)10月の新築です、また戦後途絶えていた山車曳航を加納天満宮天神まつりとして復活をしました。
天満宮(てんまぐう)とは、菅原道真を祭神とする神社です。
政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し祀られるようになった御霊信仰の代表的事例である。
加納天満宮の山車は、総高4.985メートル屋根を大唐破風造りとした三層構造で二層目高欄間が正面2.055メートル奥行き3.235メートルの大きさを持っています。
各層と屋根を動物や花の彫刻で装飾し、二層目が後方へ向かって曲線でせり上がっていることは、この山車に変化と美しさを与えています。
この山車は、濃尾震災で消失したものを明治35年前後に再建したものと思われています。
大唐破風や高欄の手法から長野県諏訪の立川流といわれる一門の作と推定されます。
加納の傘とは有名です、岐阜の名産の工芸品の一つです。
岐阜市の加納地区は全国でただ一ヶ所の蛇の目傘の産地です。
江戸時代から美濃傘と呼ばれて、その優美さを珍重されてきた伝統の傘は、この土地で作り続けられてきました。
加納の地は広重の版画にも見られるように中山道の宿場町として江戸初期より開けた土地です、岐阜城を廃城として加納城を中心の町としました。
徳川家康はこの地の中山道や御鮨街道の重要性に着目し、奥平信昌をこの地に封じ十万石を与えて加納城主としました。
地場の産業としての傘が加納の地に育ってきたのは宝暦年代(1760年頃)以降、当時の藩主永井氏はわずか三万二千石で、十万石の城を維持するのは容易なことでなかったと想像できます。
年貢米の不足を補うために、現代風に言うサイドビジネスとして和傘を利用した事がうかがえます、そう言う観点からも傘は発展しました。
境内には傘祖彰徳碑という石碑が建っています。
加納傘の沿革と題された石碑があり、それによると加納の傘は寛永16年(1639)年に松平丹波の守光重が播州明石から加納城主となった時に傘職人を連れて来て傘の製造に従事させたのが始まりと伝えられています。
現在傘は洋傘に推されています、和傘の生産も縮小されてきています。
でも、日本文化に欠かせない和傘も見直されてきて、最近では美術品として海外へ輸出もされています。
(和傘については加納まちづくり会参照)
岐阜駅南にあります、歩いていける距離です、駅から散歩がてらいかがでしょうか。

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
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