柳ケ瀬
歌で有名な柳ケ瀬ですが、と言ってもその歌も昭和40年代のヒット曲ですので知らない方も多いでしょうね。
昭和の時代、人が通るにも人でいっぱいで通りにくい時もあるくらい賑わっていました。
柳ケ瀬というのは何時からあるのでしょうか。
岐阜の町では、明治時代の中頃までは、伊奈波神社の周辺が繁華街として賑わっており、柳ケ瀬は現在のような繁菓街ではありませんでした。
明治7年(1874)に県庁が現在の総合庁舎の所に出来、明治20年(1887)国鉄(現在のJR)東海道線の停車場が設置されると、柳ケ瀬は県庁と岐阜駅の間に位置し、土地の値段が安かったことなどで少しづつ商店が立ち並び始めました。
大正8年(1919)には、岐阜市制30周年記念「内国勧業博覧会」が柳ケ瀬の元煙草専売局跡地を第一会場として開催、博覧会終了後に西側に映画館の衆楽館が建てられ、柳ケ瀬は繁華街としての第一歩を踏み始めました。
その将来性を見込んだ呉服店が次々に柳ケ瀬に進出、大正中期の映画ブームとともに柳ケ瀬ではいくつもの映画館がオープン、岐阜を代表するファッション・カルチャーの発信拠点へと変貌を遂げました。
”やなブラ”という言葉もこの頃生まれたと言われています。
昭和5年(1930)には丸物百貨店が開業、大繁華街へ成長する礎が出来上がりました。
昭和の時代忘れることの出来ない出来事に、戦争があります、この街岐阜も昭和20年(1945)7月に空襲があり焼け野原になりました。
柳ケ瀬の街も瓦礫の街と化しました。
その復興から昭和40年代の高度成長期、柳ケ瀬も時代の流れに乗って賑わいました。
大人から子供まで楽しめる娯楽が集まった街として、全国的にも有名になりました。
冒頭に歌で有名なと書きましたが、柳ヶ瀬ブルースがヒットして夜の繁華街としても賑わいました。
飲み屋の数も、人口の割合からして全国で2番目居多い時もありました、わざわざ名古屋からタクシーで飲みに来る人も居たくらいです。
それから、柳ケ瀬に丸物百貨店(その後近鉄百貨店)だけでなく大型商業施設も出来て、若者文化の発信拠点として進歩していきました。
ところが、平成年代にはいると、岐阜市近郊に大型ショッピングセンターが次々にオープン。
無料駐車場を持たない柳ケ瀬商店街は客足を奪われることになります、さらに、バプル後の不景気の影響もあり近鉄百貨店をはじめとする大型商業施設が相次いで閉店していきました。
その波を受けて、一般の商店街もシャッターを下ろし、シャッター街となっていきました。
柳ケ瀬は元気を失ってきたと思われ始めましたが、現在柳ケ瀬は新しいく生まれ変わりつつあります。
大正の時代、映画館が出来て柳ケ瀬が賑わったように、現状の映画館は新作だけでなく名作上映したり、青春時代柳ケ瀬ですごされた方にもう一度、柳ケ瀬で楽しんでいただく試みが始まってます。
そして、すでに全国区の顔となっている、ゆるキャラ”やなな”をはじめとする会がいろんな催しをして、お客様を柳ケ瀬に戻ってきて貰う活動をしています。
明治時代の中頃から岐阜を代表する繁華街として発展してきた柳ケ瀬には創業数十年を超える老舗がたくさんあります。
そうした老舗には、お祖父さん・お祖母さんの時代から続く商売を超えたお客様との永いお付き合いと人と人の繋がりがあります。
それに加え新しい試みをしているお店を加えた、柳ケ瀬を楽しんでみて下さい。
柳ケ瀬の歴史、岐阜県監修を参考にしています。

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
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