獅子庵
ここは昭和38年9月10日に岐阜県指定史跡になってます。
獅子庵は松尾芭蕉の十哲の一人で美濃派俳諧の始祖各務支考(かがみしこう)の住居で、平屋建ての簡素な建物である。
史跡にはこの他句碑と池が含まれます。
蕉門十哲(しょうもんじってつ)とは、松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指していいます。
各務支考は寛文5年(1665)山県郡北野村西山組で村瀬家の二男として生まれました。
幼くして母を亡くし、姉の嫁ぎ先に入籍し各務姓となります、その後同村の大智寺へ入り、龍潭禅師の弟子となったが、やがて仏門を離れました。
大智寺はレポートの「樹齢千年大ヒノキが見守る寺」をご覧下さい。
元禄3年(1690)3月26歳の時に近江粟津の無名庵に芭蕉を訪ねて門下となり、以来俳諧を志し芭蕉に従って各地を遊歴しました。
正徳元年(1711)46歳の時郷里に帰りこの庵に住んだ、以後も美濃を中心に俳諧の普及に務め、享保16年(1731)2月7日67歳の生涯を閉じました。
獅子庵の北側には、支考の遺骨を納めた梅花仏と歴代道統の句碑があります。
支考の句碑には次のように刻まれています、「牛叱る声に鴨立つ夕かな」黄山老人。
また、各務支考は桑名の名産、時雨蛤(志ぐれ蛤)の名付け親と言われています。
桑名市史によると、江戸の将軍へ献上されるのが慣例となっていた桑名の煮蛤を「時雨蛤」と命名したのは各務支考とかかれているそうな。
時の俳人佐々部岱山が、今一色の業者から命名を頼まれ師匠の支考に相談したところ「時雨蛤」として名づけたそうです。
芭蕉の奥の細道など有名で全国を廻って俳諧の普及しましたが、支考もそれに負けないくらい各地を廻りました。
九州・中国・四国・北陸など各地を精力的に旅し、句集や俳論などを盛んに出版して、また多くの弟子を育成してます。
現在も俳句サークルなど各地にありますが、その最初は支考が育てた物と言っても良いでしょう。
別号をたくさん持っていて、旅先や作品によって名前を変更しています。
前に上げた句碑の黄山老人もその一つで、他に盤子、野盤子、見龍、東華坊・・・などがあります。
そんな各務支考が住んでいた獅子庵を見に出かけるのもいいではないでしょうか。
大智寺に隣接していますので、大智寺も一緒にご覧下さい。

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