手力雄神社
ハンドパワー、と言ってもミスターマリックの話ではありません、いくら岐阜出身と言っても。
貞観2年(860年)に鎮座したと伝えられる、御神祭は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)通称「てぢから さま」
由緒は、古来都に軍勢が上がるとき、東海道を西進し熱田に至ると、七里の渡しで桑名に至る。
木曽三川の渡りを一度で済ませようとすると、何千何万の軍勢が敵前を渡ることになる。
それを回避するため、東海道より東山道(中山道)に入り京を目指すため、木曽川を渡りこの長森を通ることとなる。
そのため美濃側の防御地点として戦略上の要衛としてこの神社は築かれたと思われる、とあります。
延喜式(平安時代中期の律令の施行細則)に「鄙守神社」(ひなもり)とあり、美濃雑事記に「ひなもり神社、いまは手力雄神社という」とある。
平安朝の荘園時代、厚見郡の大半は東大寺領であったが、長森は花園天皇の代まで皇室領であり、花園天皇の寄進により京都大徳寺の荘園となった。
戦国時代など美濃の国は戦略上の要所となり度々戦火に見舞われた。
関ヶ原の戦いに際しては、当社を祈願所としていた織田氏が西軍についたため徳川家康の襲撃を受け、神体などごく一部を除き全焼した。
幣殿・拝殿は明治13年(1881年)に再度造営されている、現在の社殿は平成20年(2008年)に新築であります。
御神徳 「手」の動きには、押す・引く等様々な働きがあり、手話というように人の意図するところおおよそ実行する。
天照皇大神が天の岩戸に隠れてしまって、世の中が真っ暗になったとき、天照皇大神の手を執って導き出されたのが手力雄の神であります。
学問・芸能の守護神であり軍神でもあります。
雨乞いに効験ありとされていて、逆に洪水を抑える神ともされています。
今では、火祭りで有名ですが、始まりは不明だそうです。
明和年間(1764~1772)村の頭百姓と火打拓之丞(ひともしたくのじょう)とが争論になったため中断。
文化2年(1805)争論が収まり再開したと記録にあるそうです。
火祭りは、手力雄神社境内で行われる神事芸能で、火薬を使った勇壮な祭りで300年の歴史があります。
祭りの日は、各町内を爆竹と鐘を鳴り響かせながら男衆が神輿を担いでねり歩く。
やがて各町内の飾り神輿(花火神輿)が猛烈な爆竹音とともに見物客の間をぬって宮入りする。
境内正面には歌舞伎や昔話を題材とした大掛かりな山(舞台)がセットされている。
高さ20mの御神灯(巨大な行灯)に次々と点灯された後、滝花火に点火!
火の粉が降り注ぐ中、裸男が担ぐ神輿が乱舞。滝花火で神輿の花火に引火させると、祭りは最高潮に。
手筒花火や、仕掛け花火が一斉に火を噴く山焼き、火薬のにおいが立ち込める境内では見物客が圧倒される。
(と、野一色のHPに火祭りのことが詳しくあります。)
4月第二土曜日春の大祭に行われ、岐阜県の重要無形民俗文化財に指定されている。
手力雄神社の三の鳥居は境内から約400メートル位離れています。
ここの大注連縄は太さ、重さは日本一と言われているそうです。
二の鳥居は石造で、一の鳥居は、はるか大垣市赤坂にあるとされています。
ここから近い各務原市にも手力雄神社があります、こちらは信長公ゆかりの神社らしくまたレポートしたいと思ってます。

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