妙照寺
日蓮宗(身延山久遠寺を総本山とする)の寺院です。
創建は天文三年(1534)で、慶長五年(1600)に当時の岐阜城主織田秀信より当地の竹中半兵衛屋敷跡を寄進され、寛文二年(1662)本堂建立に伴い移転し現在に至る。
この寺の本堂と庫裏は平成9年7月31日に岐阜市重要文化財に指定されています。
現存する県内の神社・仏閣の中で最古の建造物であると,県教育委員会の調査の結果が報告されています。
竹中半兵衛は日本の戦国時代に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師(参謀と言う表現の方が良いという人もいます)として今孔明と呼ばれていました、ごくわずかな史実としての資料が残るだけで実際の活躍は謎めいているそうです。
岐阜城の城主の看板に名前がありますように有名な稲葉山城(岐阜城)乗っ取り、秀吉に与力し戦国時代を駆け抜けた人物です。
竹中半兵衛(たけなか はんべえ)は通称で竹中重治(たけなか しげはる)という、同じく秀吉に仕えた黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「二兵衛」と並び称された。
山側境内奥の「三光稲荷社」は、竹中半兵衛が守護神として屋敷内に祀り信仰したと伝えられているそうです。
人々は妙照寺を「さんこうさん」と呼び親しみ,「三光稲荷社」への参詣者も多いです。
松尾芭蕉は、1688(貞享5)年に妙照寺の日賢上人に案内されて岐阜に滞在、1ヶ月ほどこの寺を拠点としました。
日賢上人とは元禄6~11年のこの寺の住職であります。
芭蕉が滞在した12畳の座敷「芭蕉の間」は現在も残っています。
芭蕉が直接触れた建物は現存するものが少なく貴重なものと評価されています。
長良川の鵜飼いを見て、有名な句「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」を残しています。
その句は、華やかな鵜飼が終わって闇とともに戻ってくる静けさを詠んだと言われてます。
境内には昭和51年秋岐阜県俳句作家協会が建立した芭蕉の句碑があります、字は俳人加藤楸邨氏の筆である。
その句碑には「やどりせむ あかざの杖と なる日まで」と書かれ、句碑の横には芭蕉が植えた紅梅も残されています。
その句は、妙照寺の住職の心をこめたもてなしに、庭のあかざの木が杖に用いることが出来るようになるまで、ゆっくり滞在したいものだという気持ちを表したものとされています。
あかざとは、杖になるとされていますが木ではなく草です、一年草の草で成長すると1メートルを超えるまで伸びます。
これが杖になるまでとは、育てて乾燥させ仕上げるまでには、1年以上かかると思いますので、芭蕉はそれだけ長いこと岐阜に滞在したいと思ったと言うことは、すごく岐阜が気に入ったということですね。
そのあかざも妙照寺の境内に植えてありますので、時期にもよりますが見ることができます。
そんな妙照寺を訪れてみませんか。
岐阜公園より南へ徒歩10分弱の所です。

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
岐阜のまちをのんびり歩いて楽しんでいただける、観光名所・岐阜のグルメスポットを普通のおじさんの目から案内します。
コメントを残す