中山道河渡宿
河渡宿は長良川の渡しで栄えた宿場です。
当時、長良川の川幅は約90m(水のあるところ常水位の時)で出水時は270mにもなり、約190mくらいで川止めになったそうです。
しかし、平常水位の時は美濃最大で遊郭などがあった加納宿に旅人は急いだり留まったりして、宿場として余り潤わなかったそうです。
河渡の渡しの上流に、小紅の渡しがあります前にレポートしましたが、現在も残ってます。
渡し場の跡は現在見あたりません、ただ堤防上に祠(ほこら)が一つあって渡し場跡を表しています。
岐阜市内より河渡の渡しから少し行くと、馬頭観音があります。
荷駄役人足が天保13年(1842)にお金を出し合い、道中家内安全、五穀豊穣を祈願し愛染明王を祀るため六間四面のお堂を建立しました。
明治時代の洪水での被害や濃尾大震災での被害などと老朽化したため、昭和59年に建てかえられました。
馬頭観音より南の道が中山道で、現在新しい家並みになっていてその中央辺りに、中山道河渡宿と書いてある碑があります。
その碑の場所は一里塚跡でもあります。
この宿場は脇本陣はありませんでしたが本陣は置かれていました、一里塚跡より東の方らしいですが碑も何もありません。
宿場の概要、本陣1軒・旅籠24軒・家数64軒・人口272人・幕府領1843年宿高1300石。
その他に酒屋、薬屋、豆腐屋、煙草屋などが記録されています。
この場所は東に長良川、北に根尾川南西に糸貫川があり土地が低い位置にあって、洪水などの被害がありました。
特に文化12年6月には未曾有の洪水に見舞われ、このままでは宿も途絶えるのではと思われるほどになったそうです。
その時の代官「松下内匠」が宿中を五尺余り土盛りをして、その上に家屋を改築して、文化15年に工事を完成させ洪水に耐えるようにしました。
この功績に対し村人は、感謝しのちに「松下神社」を建立しました。
しかし、神社も碑も太平洋戦争の戦災に遭い、現在は碑も一部しか残っていません。
周りが田園で小さな集落でありましたが、太平洋戦争の岐阜の空襲により焼けてしまい昔の建物などは残っていません。
いこまい 中山道 河渡宿祭 が10月の終わりに開催されます。

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