慈恩寺
今回は2つの場所をレポートします。
・守護四仏の2つ目があるのは、景徳山慈恩寺です、ここは臨済宗妙心寺派のお寺です。
ここ慈恩寺は、平安時代の文治3年(1187)に創建され、永禄11年(1568)に織田信長公により現在の地に移りました。
木造延命地蔵菩薩座像はここの本尊であり、檜材を用いた寄せ木造り彫眼(ちょうがん)の盛り上げ彩色像であります。
彫眼とは、仏像の目をいかに写実的に・現実的に迫力のある眼とするか、仏師たちは古い時代から苦心を重ねてきた、仏像彫刻の上で、仏像の目を現わす手法のひとつ、彫眼すなわち顔面に彫り込んだ目です。
本尊は、藤原時代後期に造られた物とされており県内でも最も古い地蔵菩薩の一つであります。
この寺の伝えによりますと、この地蔵菩薩は弘法大師が造り、現在の羽島市小熊の一乗寺に安置されていたのを織田信長公によって移されたとなっています、永禄11年(1568)のことです。
そして、地蔵が小熊に帰りたいというお告げがあったので、天正2年(1574)、このあたりの地名を小熊と改めたとなっています。
地元では小熊地蔵として親しまれています。
地蔵像は岐阜市の重要文化財に指定されており、昭和20年(1945)の岐阜大空襲など、街は戦火に見舞われたが、この地蔵が火を防いだとして「火伏せ地蔵(ひぶせじぞう)」とも呼ばれてます。
そしてここには、木造芭蕉像があります。
ここに安置されております木造芭蕉像は、没後82年目に地元の皆様により建立されたものです。
像高57センチの杉材の寄木造で量感に富み、その木目は美しく、伊賀上野にある俳聖殿の芭蕉像に次ぐものといわれています。
この芭蕉像も岐阜市の重要文化財に指定されています。
・守護四仏の3つ目があるのは、西野の不動です。
西野の不動尊に安置してある像は、弘法大師が41歳の時に造られた像で旧海津郡蜂須賀村にお堂を建立して安置されてました。
その後、旧厚見郡八名瀬に移され数百年が経ち、織田信長公によってこの地に移され、岐阜城の守護として岐阜町を守らしめました。
この西野の不動尊の資料が少なく、この他のことが分かりません。
このすぐ側に、濃姫の墓があってそこを見守っているようにも感じられます。
その墓については「戦国時代の女性 帰蝶」のレポートをご覧下さい。
守護四仏のうち、前回のレポートの美江寺観音と今回の2つの場所は、地図上で見ると岐阜城城下町総構えの南側にあって東西一直線に並んでいます。
守護の名のとおり、南から攻めてくる敵に対して守っているように見られます。
道三公・信長公が作った岐阜の町を歩いてみてはいかがでしょうか。
慈恩寺は岐阜駅よりバス(200円)で約15分くらい東別院鶯谷校前下車すぐです。
西野の不動尊は岐阜駅よりバス(200円)で約15分くらい県総合庁舎西口下車徒歩5分くらいです。
西野の不動尊のリンクは http://l.lets-gifu.com/shop/index-6226.html

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
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