加納城
関ヶ原の戦いの後、金華山の岐阜城はなく(関ヶ原の戦いの前哨戦で落城)江戸時代の岐阜の城は、加納城となる。
加納城を中心として中山道を通る加納宿が城下町として栄えました。
岐阜城を廃城して木材や石垣を加納まで持ってこさせ、本格的に平城をここに建てました。
中山道大手門跡より、本丸跡までご存じのように距離があります、加納城は堀が二重になっている細長い敷地でしす。
本丸跡地にある案内板には17世紀の加納城の敷地図が載ってます、その図を見るとお堀の状態が良く分かります。
堀と川に囲まれた、水に浮かぶ城というイメージだったみたいです。
城主は徳川家康の長女亀姫を嫁がせた奥平信昌で、家康は江戸幕府の京への守りとして重要な位置を占めた「加納城」この地を守らせた。
奥平氏は三河の出身で今川側に着いていたが、桶狭間の戦いの後徳川の傘下となった。
初名は貞昌であったが、長篠の戦いで戦いぶりを織田信長から賞賛され、信長の「信」を与えられて名を信昌と改めた。
家康には娘婿として重用された。
いろいろ功績を残した信昌でありましたが、いわば社長の娘と結婚した社員であるので亀姫のワガママに手を焼いたそうです。
城主は奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えた。
明治2年加納城第16代城主、永井肥前守尚服なおことが版籍を奉還し、加納藩は同年7月14日に廃藩に至った。
明治維新の後、建物は取り壊され堀は埋め立てられ、現在は石垣が少し残っているだけとなっています。
昭和に入り本丸跡地は、陸軍第51航空師団司令部となり戦後は自衛隊の駐屯地でした。
昭和50年に自衛隊が移転して、昭和58年に国指定の史跡として登録されました。
現在は市民公園になっており市民の憩いの広場となっています。
昔の姿はありませんが、土塁石垣は見られます。
石垣は岐阜市近傍の山で産するチャートと言う石を材料に積み上げられています、金華山もチャート式の岩山です。
この石垣は「野面積み」と言う近世初頭頃までに多く用いられた積み方によるもので、近世加納城が築かれた17世紀の始め頃の姿を留めています。
これほど良好に近世初頭の石垣が残存する事例は美濃国では他に見られず、極めて貴重な遺構です。
ということが現地説明版に書いてあります。
加納城の周り少し行くと奥平信昌・亀姫の墓のある盛徳寺や亀姫の菩提寺の光国寺などがあります。
中山道ウォーキングの寄り道に寄ってはいかかでしょうか。

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
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