中山道加納宿
中山道加納宿、江戸時代の五街道の一つで本州中部の内陸側を経由する路線の中の53番目の宿場。
加納宿①の続きです、岐阜より御鮨街道を来た中山道の合流点より加納城の方向へ(南)行きます。
清水川を渡った所に高札場跡があります、高礼とは藩が領民に法やお知らせを知らせるために、人通りの多い所に立てた立て札のことです。
ここは岐阜町より加納城へ行く通りで人通りが多かったことが分かります。
宿場には、本陣・脇本陣・問屋場・木戸または番屋と高礼場がセットとなってありました。
少し南に行くと、加納城大手門跡の碑が歩道橋の横にあります。
ここに加納城の大手門が立っていました、三の丸・二の丸・本丸とお城がありましたが今は本丸の城址(国史跡)があるだけで、跡地は学校などになっています。
茶所駅辺りよりここまで、曲がりくねってきましたがこれよりは比較的真っ直ぐです。
大手門跡を西に向かうと、近代関西における西洋建築の父と言われた武田五一氏が設計した旧加納町役場があります。
戦後は進駐軍にも使われてたことがあり歴史的な建物ですが、老朽化が進んで立ち入り禁止となっています。
武田五一氏の設計で岐阜公園に名和昆虫博物館があります、登録有形文化財岐阜県第1号・都市景観重要建築物岐阜市第3号に指定されています。
さらに西に行くと、元和六年(1620年)創業の川魚料理の二文字屋があります、ここも中山道との歴史があるのですね。
国道157号線の手前に、当分本陣跡がありますここは明治天皇が御小休所跡とも書かれています。
国道に歌川広重の浮世絵「加納」の道標があります。
国道を渡ると、本陣跡があります。
中山道最大の行列、幕末のプリンセス和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)が宿泊された所で和宮の歌碑もあります。
「遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりけり」
この歌は宮内庁書陵部所蔵の静寛院宮御詠草に収められており和宮の直筆であります。
公武合体策として14代将軍・徳川家茂と降嫁のため、中山道を京より江戸まで行く途中ここに泊まりました。
御輿入れの行列は50kmにも及び、世界でも類をみない大行列だったそうです。
この加納宿だけでなく県内の他の中山道宿にいろいろ皇女和宮のことは残されています。
西問屋場跡、脇本陣跡が続いてありその北側に加納天満宮があります。
JR岐阜駅南口から来る道路を横断して中山道は続きます。
そこの南側に西方寺というお寺があり、そこは川端康成の小説篝火の舞台になりました。
またJR線ちかくに加納宿①で書いたぶたれ坊の妙泉寺があります。
そしてしばらく行くと、秋葉神社があってそこに西番所跡があります、ここが加納宿西の入口です。
東番所から約1200mの所です。
オーキッドパークの南松原町に一里塚の跡があります、一里塚のあったところは道路整備でなくなっていますので、少し南側にあります。
そして西に行くと、河渡宿となります。
道標を頼り歩いてみてはいかがでしょうか。

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