浄土寺
ロダンの「考える人」は皆さん知っていると思います。
世界的に有名な近代彫刻の父といわれるフランスの彫刻家、フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンです。
そのロダンのモデルとなった唯一の日本人女性が「花子」太田ひさです。
その花子帰国してからの晩年、亡くなるまでの24年間この岐阜市で過ごしました。
花子にゆかりの地を歩いてみませんか。
花子はお隣の県、愛知県の上祖父江村(現在の一宮市)で生まれ名古屋で芸者となり2度の結婚離婚を経て、コペンハーゲンの展覧会で踊り子を募集している事を知りヨーロッパに渡りました、花子34歳の時です。
「武士道」「ハラキリ」といった侍物の舞台を演じ、当時の東洋ブームに乗りヨーロッパ各地で巡業しました。
ロンドンでパリ万博に川上貞奴を出演させた女性プロデューサーに見いだされ、『花子』の芸名で一座を旗揚げして座長になる。
その後ヨーロッパアメリカなど18ヶ国を巡業し、一躍スーパースターになりました。
マルセイユのフランス植民地展覧会に出演していた花子の演技を見ていたロダンは、創作意欲をかきたてられ花子をモデルに頼みました。
花子をモデルにした肖像彫刻は50数点にものぼります、ロダン美術館の調査結果によるとロダンはモデルが誰であれ花子の様にこんなに数多くの作品を制作した事はないということです。
それだけロダンは花子を気に入ってたのですね、そして身長138cmだった花子を「プチト・ハナコ」と呼び可愛がっていたそうです。
花子は53歳の時(大正10年)帰国し、ここ岐阜市西園町の芸者置屋で隠居していました。
そのときロダンの作った2つのマスクを携えて帰ってきました、そしてそのマスクみたさに多くの人が岐阜を訪れます。
作家高村光太郎もその一人です、著書「小さい花子」にその時の印象を記しています。
「イギリスばあちゃん」これが晩年近所の人が花子に対する呼び名だったそうです。
花子が暮らした場所は、岐阜市役所東側当たりで、岐阜芸妓検番(芸妓組合の事務所)がある付近です。
芸妓さんが活躍する場は、お茶屋(芸妓さんあげて、食事やお遊びを楽しみ頂く『お座敷』)さんです。
この辺り数件ありましたが、現在お茶屋というのはその北側にある『おざしき 満豊』が岐阜市で一つだけ残っています。
お茶屋の建物は一階が住居二階がお座敷になっています、その雰囲気を残す建物が現在も数件あり、その当時の感じが醸し出されています。
近くに花子が利用していた履き物屋・文具店・食材屋・料理屋などがあり足跡が残っています。
高村光太郎が土産を買った肉屋や孫の送り迎えをした小学校もあります。
美殿町界隈も花子が生活したところで、ガス灯とコミュニティ道路で親しまれています。
そして岐阜で晩年を暮らし生涯の幕を閉じた花子の墓が、鶯谷町の浄土寺にあり2004年に花子の碑が建てられました。
浄土寺まではバスで約15分岐阜駅より岩戸公園行、東別院鶯谷高校前下車すぐです。
花子が暮らした町並み辺り柳ケ瀬などは、岐阜駅より北へ徒歩約15分程度で行けます。
写真は「浄土寺」と「おざしき 満豊」です。
花子ゆかりの地を岐阜の町並みと一緒にゆっくり歩いてみてください。

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
岐阜のまちをのんびり歩いて楽しんでいただける、観光名所・岐阜のグルメスポットを普通のおじさんの目から案内します。
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