
前回レポートとした妻木城の北麓に妻木城士屋敷(つまぎじょうさむらいやしき)があります。

城山の北麓には、御殿・御枡形・御門・御庭・御蔵・伝入隠宅などの地名があります、この区画は、旗本妻木氏の陣屋や住居にあたるところです。

これに続く北側には、中垣助左衛門屋敷・土屋孫兵衛屋敷など家臣の名のついた区画があり、家臣団の屋敷跡が続いています、これらの区画の中には石積や井戸跡が一部残ってます。

本能寺の変の後に起きた山崎の戦いの際、城を治めていたのは第12代城主の妻木広忠であったが、広忠は明智軍に属して敗北し自刃したため、嫡男の妻木頼忠が跡を継ぎました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に就いた妻木頼忠は戦功を挙げ、慶長6年(1601)に徳川家康から改めてこの地域を与えられました、その際に妻木城北麓にこの屋敷群を建てた。

そして元禄年間にかけて妻木城から次第にこの屋敷に拠点を移し、主にここが機能するようになっていきました。
その後土岐郡内7500石の領主は頼忠の子の妻木頼利、次に頼利の子の妻木頼次7000石(頼次の弟・幸広に500石分地のため)が跡を継いだが、頼次の跡継ぎが無いまま万治元年(1658)に死去し、妻木氏本家は3代で断絶し屋敷も放棄されました。

しかし、頼次の弟の妻木幸広が土岐郡大富村500石から妻木上郷へ領地替されたことにより、上郷に新たに陣屋を築いて上郷妻木家(在地代官は日東氏)として存続し、明治維新に至りました。

御殿跡の内部は高さ1~2m前後の石垣で区画され御殿跡・枡形と呼ばれる曲輪が造られています。
江戸時代前期の旗本クラス城郭遺構が居館や家臣団の屋敷地を含めて残されている例はまれで、昭和31年に妻木城が、翌年に士屋敷が岐阜県史跡に指定されています。

士屋敷の周囲や、西側の道を登ったりすると、どこからでも石垣を堪能できます、石垣・石積みファンにとって良い所に来たという満足感が得られます。

東海環状自動車道土岐南多治見ICから自動車で約15分です。

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