
北方城(きたがたじょう)は、岐阜県本巣郡北方町にあった戦国時代の日本の城です、明応年間、伊賀太郎衛門光就が築城し居城としました。

光就の曾孫は、安東(安藤)伊賀守守就に改名し、当初土岐頼芸に仕えていたが、道三公の家臣として仕え、稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されました。
弘治2年(1556)道三公と斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力し、義龍の没後は斎藤龍興に仕えました。

永禄10年(1567)織田信長公の美濃侵攻に対して西美濃三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕え、引き続き北方城城主となる。
元亀元年(1570)6月の姉川の合戦、翌年の長嶋一向一揆討伐に参戦して大功をたてた。

しかし天正8年(1580)嫡子合渡城主尚就が甲斐の武田勝頼と内通したという嫌疑により、信長公によって追放され、北方城城主は稲葉良通(一鉄)がなった。
天正10年(1582)本能寺の変が起こり、信長公が明智光秀により討たれると、守就は子の安藤尚就と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みたが稲葉良通に攻められ敗死し北方城は廃城となりました(北方合戦)。

北方城の跡地には、寛文8年(1668)に北方陣屋が築かれ、美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)旗本5,000石の陣屋となり、明治元年(1868)まで存続しました。
北方城跡は昭和43年(1973)11月に県指定の史跡に指定されています。

大井神社の東側を西北の隅として、水路で囲まれた東西約160m・南北約340mの部分が北方城址と推定されます。

大井神社の創祀の年歴は、古く明らかではないが由緒によると、永延2年(988)円鏡寺中興の祖良佑上人は、本坊、惣門など総ての堂塔を完成させ、その上16坊の塔頭(たっちゅう)を配して一大寺院を造り上げ、その時東北の牛頭天王の祠をもって鬼門鎮護としたと記されているそうです。

主祭神素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、高天原から出雲国にくだられてからは、治山治水に力を入れて国造りを進められたので、英雄神として親しまれた神です。

北方町役場・円鏡寺の東側になります。

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