
可成寺(かじょうじ)は、岐阜県可児市兼山にある臨済宗妙心寺派の寺院です、山号は大龍山と言い本尊は釈迦如来です、森氏の菩提寺として知られています。

元亀2年(1571)美濃金山城(前のレポート、えっ犬山城?参照)城主で森氏当主の森可成(よしなり)が宇佐山城の戦いで死去したため、嫡子の森長可(ながよし)が菩提寺として栄巌を開山に招いて、父の名前をそのまま使い美濃金山城の東に創建しました。

長可が天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いで戦死し、その墓が寺内に建立されています、森氏が慶長5年(1600)に信濃国川中島(長野県長野市)へ移封された際に現在地に移転しました。
江戸時代には大名であった森氏により堂宇が整備されるなど保護されていました、昭和42年(1967)に八百津町に所在していた森成利・森長隆・森長氏の墓が境内に移されています。

寺宝として岐阜県の文化財に指定されている森長可所用の脛当(可成愛用の品)や、可児市の文化財に指定されている森長可の画像を所蔵しています。

寺の裏手、山の斜面に墓があります、ごつい擁壁の所を入っていきます。

森可成とはどのような人物か、槍の名手で関兼定銘の十文字槍の使い手であり、武勇の誉れ高く”攻めの三左”という異名を誇っていました。
斎藤道三公と義龍との争い(長良川の戦い)において道三への援軍として参戦するも道三は敗死しました。

織田家においては柴田勝家より以前に信長に仕えた年長組で美濃衆として活動しました、信長の家督相続と尾張国統一に尽力し、弘治元年(1555)の信長による清洲城攻めでは織田信友(広信)を討つ功績を挙げました。
永禄3年(1560)の今川義元との桶狭間の戦いなどにも参加しました。

信長は可成の死を深く悲しみ、直後に弔い合戦として浅井・朝倉軍に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちすることになる原因の1つになったと言われています。
この焼き討ちに森家の遺族は幼少の子らが多くこの戦に加わっていなかった、森家の血筋は祖先・源義隆が比叡山の僧兵の矢に倒れたという因縁があり、可成討死の要因を作った比叡山とは積年の因縁で結びついていた、とも言われています。

武辺者として多くの武勇伝が伝わり、織田家重臣として政務にも大きく関わっていた事が伺えます、そして子宝に恵まれ、生まれた六男三女とも正室えいとの間の子供で愛妻家であったと言われています。

東海環状道可児御嵩ICから車で約10分。

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