
織田信長公を題材にした映画やドラマは数あります、信長公の側には森蘭丸が仕えていました。
この兼山湊でも蘭丸の少年時代に繁栄する湊がドラマのロケに使われました。

兼山湊跡は室町末期(1530頃)斉藤氏治世の頃すでに河川交通運杙の事業があったとされている。
木曽川水運の重要性は、木曽谷木杙の運送にあったが元亀天正時代、城主森氏の政治的軍事的の要衡ともなった。

一方経済交通手段として湊の繁栄は城下町経営に重要な意義があった、即ちこの一帯を免祖地として優遇、一方塩問屋などに専売兼を認め運上金を収めさせた。
古記録によれば、森軍出陣のいくたびかは、3千の人馬がこの辺り「下モ渡り」を押し渡ったという。
永禄11年(1568)信長公上洛の時京都御所修築用杙多数を木曽から馬荷駄で運び、兼山湊船積みしたという。

寛文5年(1665)以来尾張藩は木曽山林の経営を行い、錦織奉行所に木曽川運杙を任せ川並みに番所を置いて監督「船役銀」を取り立てた、尾張藩御用杙・伊勢神宮遷宮御用杙も上流錦織網場で筏組みしてここを下った。
弘化元年(1844)岩村藩松平氏江戸御廻米もここまで馬で運び、この湊から津出しして桑名経由江戸蔵屋敷まで船送りした。

兼山湊の茶酒陶器数もここから大量に積み出された、のぼり船からは塩海魚・海草・日用雑貨をおろし兼山「六斉市」及び座売りに、一方問屋は東・中濃一帯に広く販路を持った。
この辺り一帯、出船入船でにぎわい町筋には宿屋・飯屋・馬宿など船荷相手の店が軒を連なれ船問屋の倉庫も建ち並んでいた。

大正から昭和に至って、ダム建設や鉄道道路橋梁等陸運の整備により船運は次第に衰退した。
昭和14年(1939)下流今渡ダム完成により一帯が潅水状態になり、兼山瀞八丁の景観を呈しているが以前は瀬音の聞こえる急流であった。
川岸の水神と石燈台は舟航安全を祈願して船問屋が建てたもの、石畳みは荷役ののぼり降りに容易なように斜伏せになっている。

名鉄広見線明智駅からタクシー約15分、国道475号より木曽川上流へ少しです。

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