
高山城跡は、土岐川の氾濫原を見下ろす標高183mの細長い丘陵に立地しています。
麓からの比高差はおよそ57mで、通称サバと言われる砂岩層の岸壁上に築かれています。

高山城は鎌倉時代から戦国時代にかけて土岐市北部の中心的存在でした、遠山十八支城 ( とおやまじゅうはちしじょう )の一つです。
遠山十八支城は、岩村城の戦いで武田勝頼の軍勢によって墜とされた岩村遠山氏の城や砦、甲陽軍鑑で「遠山十八支城をことごとく落とした」としているが、はっきりとされておらず、文献によって解釈はまちまちです。

平安時代後期から鎌倉時代にかけて各地に広がった源氏、平氏の武士集団は源平の合戦を経て源頼朝は鎌倉に幕府を設けました。
美濃に進出した美濃源氏は源光信が平安時代に大富館(泉)を構えた後、源光衡が一日市場館(瑞浪市)、源光行が承久の乱(1221)の頃に浅野館(肥田)を建てました。
京都の朝廷と鎌倉幕府の双方と深い関わりを持ちながら美濃国の統治に力を注ぎ、美濃国土岐郡に基盤を持った美濃源氏は土岐氏と呼称されるようになりました。

高山城は承久の乱の頃に土岐氏一族の高山伊賀守秀頼により創建されたと言われ、美濃国の中枢となった浅野、大富の居館を守備する要塞として重要な役割を果たしました。

弘治2年(1556)末代の高山伊賀守光俊没後、武田信玄の命を受けた平井光行・頼母親子が高山へ兵を進め城主となりました。
織田勢と武田勢が対峙する中で、武田側に父光行を亡き者にされた頼母は織田信長公に属し支援を受けて、高山城を強固な要塞と成し武田軍の侵攻に備えました。

頼母は天正10年(1582)に織田信長公の3万の軍勢と共に高遠城を攻め落とし武田家を滅ぼしました。
同年6月に発生した本能寺の変によって再び動乱の嵐に見舞われ、金山の森長可に高山城を開城することとなりました。
関ヶ原の合戦の後、元和元年(1615)一国一城令により高山城は廃城となりました。

江戸時代になって、武田勝頼の美濃攻め犠牲者を供養するため武田信玄の4代の孫、雲峰元沖により古城山慈光院(黄檗宗)が開創され、その後真言宗の弘法様(現在の穴弘法)として人々の信仰を集めました。

JR中央線土岐駅下車徒歩約20分、中央自動車道土岐ICより車で約5分です。

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