
妻木城(つまぎじょう)は妻木町を見下ろす標高409mの城山の山頂に築かれた山城です、山頂に石垣などが残り城山の山麓には御殿跡、士屋敷跡と云われる遺構が残されています。
築城年代についてはこれまで土岐明智彦九郎頼重(土岐明智氏・妻木氏の祖)が、祖父である美濃守護職土岐頼貞の遺領を継いだ暦応2年(1339)頃とされていましたが、発掘調査成果により戦後期時代(15世紀中~後半)と考えられています。

妻木城のI郭とⅡ郭は、石垣のよって2段に分けられ、I郭は東側にⅡ郭は北側に虎口を設けています。
周囲は曲輪や帯曲輪があり、北側を除いて堀切などによって尾根続きを分断しています。

また、南西側の井戸が造られた曲輪のすぐ南には、土塁を築いて谷筋の防御とし主郭へは直接登れない配置にしています。
しかし、西側の尾根続きを分断した外側にも曲輪が続いていますので、当初は東西に長い縄張りであったと考えられます。

関ヶ原の戦いの際に東軍に着いた妻木氏が岩村城の田丸氏の攻撃に備えて防御を固めるため、堀切や横堀によってコンパクトに再編成したものと考えられます。

その後妻木氏は、江戸時代初頭(17世紀)まで機能していましたが、それ以降は麓の士屋敷(妻木陣屋)がメインの場として使用され、妻木氏が断絶される万治元年(1658)頃まで利用されてました。

節理と言うのは、一言で言うと岩石に表れる規則正しい割れ目の事です、マグマが冷却する時や地殻変動の際に発生します。
ここにある花崗岩は人が手を加えたように見られますが節理です。

大河ドラマ麒麟がくるで光秀の妻となるのが、妻木氏の煕子(ひろこ)です、ドラマの設定で明智氏と妻木氏は同族のようになってます。

妻木勘解由左衛門範煕(のりひろ)の娘と言う説が有力ですが、諸説あります。
ドラマで光秀は妻木城に何度も訪れているようになってました。

現在は本丸、二の丸跡地に小さな神社が置かれています、妻木城の登城口には駐車するスペースがあり、石垣や曲輪、土塁等の遺構も整備されていますが建造物は残っていません、山麓の北側に妻木城士屋敷があります。
東海環状自動車道土岐南多治見ICから自動車で約15分です。

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