
桔梗塚
この地、中洞古屋敷白山神社に隣接する林の中にある高さ106センチの石塔と高さ112センチの五輪の塔は、桔梗塚と呼ばれ明智光秀の墓とされています。

伝わる古文書によると、光秀は本能寺の変の後山崎の合戦とき秀吉に討たれたれましたが、それは影武者荒木山城守行信でした。
「荒」木山城守行信の忠誠に感謝し、恩の「深」さを感じ荒深小五郎と姓名を改めたとされています。

その後、関ケ原合戦で徳川家康に従軍しようと藪川(現・根尾川)を馬で越えようとしたときに洪水に巻き込まれ溺死しました。
従者たちは光秀の遺品を持ち帰り、墓を建てたと伝えられており、現在も地域住民により毎年供養祭を行っています。

そして、白山神社の一角に光秀の母がうぶ湯を汲んだとされる井戸があります。
また、神社近くの武儀川には、光秀の母が懐妊したとき、「生まれる子が男の子なら、3日でよいから天下を取るような立派な男の子を授けてください」と祈ったと伝えられる「行徳岩」があります。

生まれる時から運命が決まっていたという事ですかね。

光秀の墓とされているのは、ここの他滋賀県や京都府にもあります。
大津市の西教寺にある光秀と一族の墓で、他に 野山奥の院 、明智町の龍護寺、京都市東山区の尊勝院、亀岡市の谷性寺、宮津市の盛林寺には首塚、京都市山科区には胴塚など多くの墓が現存してます。

また生地は可児市広見・瀬田(旧・明智荘)の明智城とも言われる、少なくとも、美濃国辺りで生まれたことは事実であるとみられています。
このほかに近江国出生説もあります、江戸時代前期に刊行された淡海温故録の記述から、土岐氏に背いた光秀の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれた可能性があり、同郡の多賀町佐目には十兵衛屋敷跡(十兵衛は光秀の異名)と呼ばれてきた場所があります。
瑞浪市説や、大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所あります。

武儀川・美山中学の北側になります。

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行ってきました!!
麒麟は来る、山県市、頑張ろう。
今度、すぐ隣の鴨のバーベキュー食べに、みんなでお墓を訪ねます。