
前回の続きです、神明神社を過ぎると脇本陣が有ります。
一般公開はされて無いそうですが、建坪は開口16間余、奥行き6~12間の98坪、部屋数19、畳数121畳、別棟4、門構え・玄関付きで一部改修・縮小されていますが、概ね往時のままの姿をとどめているそうです。(国登録有形文化財)

この辺り昔を思い出させる建物が並ぶ街並みとなっています。
宿内の町並みは、十三峠西端の寺坂を下りた北町から、白山町、中町、神明町、西町までの東西3町6間(340メートル)でした、枡形は北町につくられ、本陣は白山町の北側、問屋場と脇本陣は中町の北側にあり往還に沿ってつくられた細長い町並みでした。

また家々の地割は6間半平均に正しく割られ、家々の境界にはすべて石積みの側溝が施されていて、新宿設置の様子がうかがわれます。
虫篭窓や越屋根(煙だし)の特徴あるものは昔を感じさせられます。

大湫宿史の中で一番の大事件に挙げられるのが、文久元年(1861年)10月の皇女和宮御降嫁です。
皇女和宮が宿泊した本陣は現在小学校跡となり、皇女和宮が道中詠んだとされる歌碑が建っています。

本陣の造りは間口22間(約40m)、奥行き15間(約27m)、部屋数23、畳数212畳、別棟添屋という広大な建物で公卿や大名、高級武士たちのための宿舎です。
また数々の宮姫のほか皇女和宮が14代将軍徳川家茂へ御降嫁のため文久元年(1861年)10月28日に宿泊されている。

相次ぐ外国船の到来による鎖国か開港かの国難を乗り切るために考えられた公武合体論によって、「国のためになるのなら」と、仁孝天皇第8皇女であった和宮は、14代将軍徳川家茂のもとへ降嫁されることになりました、和宮この時16歳(家茂も16歳)。

御降嫁の行列は、朝廷から差副えの宰相典侍局(さいしょうてんじのつぼね)や生母観行院(かんぎょういん)などのお局・女官等の他、若年寄加納遠江守以下の幕府のお迎役や供奉諸家らで総勢約5,000人。

その行列の継立のために大湫宿に招集された人馬は、何と2万8千人と馬820頭、 行列は前後4日間に分けて連日行われ、合計3万3千人余の人々が、宿泊・食事・行列をしたと文献に残されているそうです。

国登録有形文化財旧森川訓行家住宅(丸森)は、平成28年12月に瑞浪市中山道観光案内所として公開し、見学も可能となりました。

そして突き当りに行き、左に行くと白木番所跡、右に行くと大井宿にに向かいます。

JR中央本線 釜戸駅から瑞浪市コミュニティバス釜戸=大湫線「大湫」バス停下車

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