
祐泉寺(ゆうせんじ)は中山道太田宿にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は龍興寺です。
寺伝によれば文明6年(1474)に東陽英朝禅師(大道真源)が湧泉庵という寺を建立したことに始まるといわれています。

東陽英朝は滞在中霊夢により木曽川の底に観音菩薩が沈んでいることを知り、それを引き上げ本尊としました。
後に近隣で大火が起きた際にこの観音像が祭ってある堂宇まで火が迫ると火勢が衰え鎮火したため、霊威ある観音像として滝場観音の異称があります。
16世紀の初め、八百津の大仙寺の末寺として祐川庵と称し、後の17世紀後半(寛文年間)に現在の祐泉寺と改称しています。
タイトルに枡形の角地とありますが、祐泉寺は中山道沿いに立地していて、祐泉寺あたりで中山道は鈎型に折れ曲がっています。
これは外敵の侵入を少しでも阻もうと設けられた防衛上の道路形状で、桝形(ますがた)と呼ばれています。

この桝形は、他の宿場町や城下町にも見受けられますが、曲がっていることで一直線に行くことが出来ず、角地などで待ち伏せることもできます。
太田宿の場合は祐泉寺の西方約500mにも存在し、東西2箇所の桝形によって太田宿の中枢部が守られていました。

祐泉寺の境内には数多くの石碑が残されています。
大正3年(1914年)この地を訪れ、太田町(現在の美濃加茂市太田町)から犬山町(現在の犬山市)までの木曽川がヨーロッパのライン河に似ているとして「日本ライン」と命名した地理学者志賀重昂の碑。

槍ケ岳を開山した播隆上人の歌碑や墓碑・太田の地で生れ育った明治の文豪坪内逍遙が述懐の念をこめて詠んだ「椿の歌」の碑・北原白秋が祐泉寺を訪れ茶席でしたためた歌の碑。
松尾芭蕉の門弟となった脇本陣3代目の林由興(冬甫)が師を悼んで建てた芭蕉の句碑・西園寺公望の石標などが残され、祐泉寺の歴史の古さを物語っています。
JR美濃太田駅から南(木曽川方向)へ徒歩で約15分。

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