
住所:岐阜市雛倉721
ジャンル:名所
新聞に悲恋が伴う地名の記事が出ていて行ってきました。
岐阜市の北西に位置するところです、温水プールがある掛洞の手前を東に行きます。

道路を進むと 夫婦岩 雛倉 と書かれた白い木柱があり、そこを曲がると直ぐにその場所がありました、もともとは90mほど北の道路付近に立っていたそうですが、昭和51年に土地改良で現在地に移されました。
そこには、夫婦岩と雛倉観音堂があり案内看板には夫婦岩について書かれていました、雛倉観音堂は地元の方々により馬頭観音や青面金剛等が祀られています。

この石の事を夫婦岩とか二つ岩と呼ばれ、この石について興味深い物語がのこってます、室町時代網代一帯は桜の木が多く、春には花見を楽しむ人で賑わっていました。
西方の祐向山城(いこやまじょう)の雛鶴姫と大桑城の武士、高井倉之助(伊自良村小倉)は花見の折に互いに心に惹かれ、夫婦になる事を誓いました。

しかし国盗りの戦のため双方の城は落とされてしまいました、敵に追い詰められ、あの世で結ばれようと心中してしまったそうです。
村人は二人を哀れみ、そこに二つの岩石を立てて祀りました、これが夫婦岩と言われて今に伝えられています、その後、いつしか村人は二人の頭文字を取って雛倉の地名になったと言われています。

雛倉より西方に祐向山城があり、北東に大桑城があり、その麓の間に雛倉がある地形になっています。

祐向山城の築城年代は定かではありません、弘安年間頃には、藤崎行長の次男で美濃国守護代の藤崎泰綱がこれらの城の城主だったとされてます、戦国時代には斎藤家の家臣・長井利安が居城とし、また斎藤道三も一時は拠点としました。
斎藤龍興は永禄7年(1564)に稲葉山城を一時退去し、この際に祐向山城を経て揖斐城に移ったといわれ、永禄10年(1568)に織田信長公の美濃侵攻に伴って祐向山城は滅ぼされたそうです。

]大桑城跡は、室町時代から戦国時代にかけて権勢を誇った、美濃国の守護土岐氏の山城です。
天文12年(1543)、勢力を増していた斎藤道三との間に大きな戦いが起こり、大桑城は落城、頼芸は天文19年(1550)頃に道三によって国外に追放されました。

岐阜市内より県道167号を北上、車で約30分位です。

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