御鮨街道も鮎鮨街道も同じです、笠松町では鮎鮨街道と言うことが多いです。
岐阜市内では御鮨街道と言ってます。
観光のお客様で、御鮨街道と聞いてお寿司屋さんが沢山ある街道と間違えてる方がおみえですがお間違えないように、御鮨を運んだ街道です。
まぁ岐阜の養老に焼き肉街道と呼ばれる所などがあるから、そう思われるのも仕方ないと思います。
慶長8年(1603)に美濃国奉行であった大久保長安が徳川家康、秀忠に鮎鮨を献上しました。
元和元年(1615)からは毎年5月から9月ころまでの間に10数回、岐阜町の御鮨処から加納問屋場を経て、笠松問屋場で受け継ぎ、一宮(愛知県)問屋場へそして江戸へと送られました。
1回に鮎鮨4桶(1桶に鮎大10尾、小20尾)を1荷として3 – 5荷を江戸城に向けて輸送したようです。
笠松からは、農民が1回15人で運ぶ仕事をしていました。
碑に書かれている歌は、鮎鮓の桶かつぎ受けわたし 人びとは江戸への道をひたに走りき、です。
岐阜市内の御鮨街道の時にも書きましたが、江戸に着く頃に発酵して食べ頃になるように作られていました。
予定の期日に遅れないように岐阜から江戸までの46の宿場を通過する時間を指定しており、当時の宿場帳によれば、岐阜から江戸まで5日間で運んでいたようです。
笠松宿問屋であった高島家には、今も鮎鮨御三荷継立帳・御鮨役人足帳の文書が残されています。
天保年間(江戸時代後期)のものですが、それはこまかな記録だそうです。
御鮨役人足帳によると、アユ鮨を笠松から一宮まで運んだ人たちの名前を、170年以上たった今もそこに読み取ることができます。
元助、小助、左吉などの名前に混じって、「たの」・「るか」など女性達の名前があります、一宮までおよそ10㎞の道のりを、男たちにまじって、走ったのでしょうか。
名鉄西笠松より東に徒歩10分程度です。

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