
住所:岐阜市野一色4-14
ジャンル:公園、名所、テニスコート
岐阜市立長森中学と富田学園の間に、野一色公園はあります。
学校にに挟まれた場所にある公園で、すぐそばには他にも専門学校や長森児童センター等もあり、子供たちが多く生活する場所になります。

園内にはテニスコートが充実してあり、広々とした芝生のエリアや遊具のエリアも有って、コンビネーション遊具をはじめ、ザイルクライミングなど全身を使って遊べる遊具が揃っています。
そんな中、公園中央部に碑が有りました、岐阜聯隊史蹟碑と書かれています。

裏に回ると、岐阜聨隊は國運ようやく隆盛におもむく明治40年10月この地に創設され翌41年5月10日軍旗を授けられた 以来第二次世界大戦に至るまで数度の戦役あるいは事変に参加しよく華陽健児の面目を発揮した

歴史は変遷したが郷土に輝いた将兵の誠は國民の祖國を愛する傅統の中に生きている ここにありし日の聨隊を忍びこの碑を建てる 昭和36年5月10日 岐阜聯隊史蹟保存会 岐阜市長松尾吾策書 と書かれてます。

ここには岐阜市の戦争遺跡として、大日本帝国陸軍の歩兵第六十八連隊の兵営、練兵所と陸軍病院の跡があります。
日清・日露戦争の頃連隊が遠隔にあって慰問もできず、家族の面会も無く戦死していったことから、兵営の誘致がおこり明治41年(1908)この場所に設営、翌年には西隣に岐阜衛戍病院(昭和に陸軍病院と改称)が創設され、以後ここから多くの兵士が出征した。

長森中学の西側に旧陸軍病院の東通用門の門柱があります、
六八連隊の西側に陸軍病院があり、この門を通り行き来していました、岐阜衛戍(えいじゅ)病院でその後陸軍病院、昭和20年に国立岐阜病院、岐阜県立病院、岐阜県総合医療センターと名前を変えています。

東通用門から北に行くと長森通学のプールが道路より高くなってあります、そこは弾薬庫跡の上に造られているそうです。
公園の南入り口に土塁と側溝があります、周囲約1.5キロに築かれていて当時の石組を利用して再現しています。

昭和20年8月に広島と長崎に原子爆弾を投下されたことは知っていても、同じ年の7月9日の午前11時半ごろ、岐阜市上空に爆撃機B29が130機現われ、約1万5000発の焼夷弾が投下された岐阜空襲を知っている方はどれくらいいるでしょうか、岐阜でも戦争で大きな被害があったことを忘れないためにこの場所があります。

岐阜バス、水海道行き長森中前下車徒歩1分です。

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
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