天正14年(1586)6月24日未曾有の大洪水により、木曽川の河道が現在の流れに変わりました。
それまでの河道は、前渡(各務原)より北西に流れ中屋(各務原)、芋島・中島(岐阜)を経て、岐阜市と岐南町の境を流れる境川に沿って大きく蛇行し、笠松町の北西から柳津町へ流れ長良川に注いでいました。
天正14年のこの洪水は、葉栗・中島両郡の中央を貫き村を二分しました。
現在岐阜県と愛知県に同じ地名が残るのも、この洪水によるものです。
笠松湊は、木曽川水運の中継地点として発展しました、現在は笠松みなと公園として整備されており、川灯台が建てられています。
船留場までの道には河原石を敷き詰めた石畳が今でも残っいます、 笠松渡船場跡石畳は県指定史跡です。
伊勢から木曽川を上り、塩・魚・石炭などを笠松湊で陸揚げし、陸路で岐阜・美濃各地さらに飛騨・信濃に運びました。
上流から年貢米・薪炭・木竹類などを伊勢・尾張、海路を経て江戸まで運びました。
元和3年(1617)本巣の真桑村から献上の真桑瓜や、岐阜から献上の鮎鮨の継送りに差し支えないように人馬往来問屋が設けられた。
船問屋や諸荷物問屋などが軒を連ねていました。
寛文2年(1662)美濃国奉行(美濃郡代)名取半左衛門長知が郡代陣屋を移し、傘町から笠松に改称してから約200年にわたり、笠松陣屋を中心に、徳川幕府直轄地支配や治水行政の中心地、地方物資の集散地となりました。
明治18年(1885)には笠松湊へ寄港する船は1日平均38艘、1年間に6,440艘あまりで、明治25年(1892年)ごろまでは桑名からの蒸気船が1日2往復していたそうです。
明治22年(1889)に東海道線が全線開通し車の社会になって、次第に川での船運は寂れていき湊の役目は終わりました。
名鉄西笠松駅、東笠松駅より約10分です。
車の場合笠松みなと公園の駐車場があります。

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