
住所:岐阜市柳津町高桑2丁目
ジャンル:名所
境川沿い岐阜羽島ゴルフクラブがある所近く、東境川橋から入った所にこの場所はあります。
岐阜市の看板が有って、高桑城址(たかくわじょうし)と書かれてます。

看板の説明には、鎌倉時代初め(1190年代)から1567年(永禄10年)まで、ここに高桑城がありました。
この城は土塁で築かれ、周囲は約400メートル、その北西には御館様と呼ばれる城主家高桑氏の住居がありました。

城は1527年(大永7年)8月留守居役武山氏に渡り、1567年(永禄10年)織田信長の手によって落城しました。
今は堤外に土盛りが一部残っており、城石は慈恩寺の観音堂の石垣に使われています。と書かれています。

説明文は高桑城が在りました、という事しか書いて無く築造等は不明でした。
調べると、築城時期は諸説あるそうで、高桑城の城主である高桑氏が、1221年(承久3年)の承久の乱の際に朝廷側の武将、朝廷に任命された。

高桑氏が大将軍として参戦している記録があることから、鎌倉時代初期以前(1190年代以前)だと思われます。
承久の乱以降は土岐氏に仕え、高桑城は土岐氏の川手城の大変重要な支城の役割を担っていたそうで、1494年(明応3年)船田の乱により、落城しましたが後に再建されたそうです。

高桑城は1190年から1527年迄の約337年もの間、代々高桑氏が城主であったが、1530年(享禄3年)には道三公が土岐氏を追放し、美濃国を支配し正式に武山氏の居城となりました。
1567年(永禄10年)、織田信長公の命を受けた織田信忠が攻め、武山氏の居城の高桑城は落城し廃城となりました。

現在近くを流れる境川の河川敷に土塁がわずかに残っているという事ですが、実際は分かりにくいです。
堤防からは看板があり場所的に分かりますが、反対側はゴルフ場で入れませんでした、玉石の土留があり土塁の法尻なのでしょうか。

城石の一部は、高桑氏の菩提寺であった高桑山慈恩寺(岐阜市柳津町高桑)の観音堂に使われているそうです。

名鉄竹鼻線南宿駅より西に徒歩約30分位です。

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