
岐阜で四国?と思う方も多いと思います、讃岐・阿波・伊予・土佐の事ではありません。
大桑城下の谷筋をふさぎ止めるように造られた空堀と土塁の後があります、堀の深さ5m・幅約8mで、土塁の長さは約100mにわたって残っています、山県市指定史跡です。

案内看板によると、ここ大桑は戦国時代、美濃国の守護大名・土岐氏が大桑城(おおがじょう)を築いた地です。
江戸時代に描かれた絵図には四国堀・越前堀・外堀などの堀があったことが記されています。

現在ここに残っている堀と土塁の跡は四国堀に当たり、斎藤道三公との戦いに備えていた当時の守護・土岐頼芸が、越前など四ヶ国の軍勢の加勢を受けて造ったという伝承が残っています。

また絵図に記された越前堀は越前の軍勢が掘ったとされるもので現在は残っていませんが、平成8・9年度の発掘調査ではこれに相当すると思われる埋没した堀の跡が確認されました。

堀を境にして谷の内部が城内であり、土岐氏の本拠地がこれらの堀によって守られていたことがわかります。
そのほかこの一帯には城下町らしきものがあったことを、うかがわせるような屋敷地名や寺院・鍛冶屋の伝承等が残っています。(山県市教育委員会)

案内看板には四つの国名は記入されていませんでしたが、四国と呼ばれるのは、尾張・伊勢・越前・近江の四つの国で、そこから加勢を受けて築いたと伝えられていることに由来していろそうです。
越前朝倉氏の一乗谷城下の上・下城戸と同じく、城下を仕切る機能を持つことから、その影響が伺えます。

この四国堀の近くに六万墓の石碑があります、土岐氏と斎藤道三公の激突は天文11年(1542)に始まります。
大桑に進攻した道三公の軍勢は大規模なもので、激しい戦いが繰り広げられ多くの戦死者を出しました。
戦いの後、戦死者の骨が埋められた場所で、南泉寺の仁岫和尚が焼香を行い、墓石を建てました。
六万(六萬)という数字は定かではありませんが、それほど多くの人々を巻き込む合戦がこの地で行われたことを物語っています。

岐北厚生病院前ハーバス大桑線に乗車、椿野バス停下車徒歩約1分、車で関広見ICから約25分。

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