
中山道細久手宿(ほそくてじゅく)は中山道48番目(江戸から)の宿場です。
海抜420メートルの山中に発達したところにあり、東北から南西方向に緩い下り坂が一筋に延び、その長さは400メートル余りになります。
慶長15年(1610)に設置され、江戸時代後期の天保14年(1843)の記録によると、戸数65軒を数え、うち24軒が旅籠を営んでいたそうです。

西から細久手宿に向かうと、宿場まで700mの看板がある近くに細久手の穴観音(馬頭観音)と言うものがある。

1階お参りすると9万9千回分のご利益があることから九万九千日観音とも呼ばれ、宿民や旅人から信仰を受けていました。

集落が出て来て上り道を進んでいくと、細久手宿脇本陣跡があります、その斜め前が本陣跡で石碑が立っています。

そこから少し進むと、現在も営んでる尾州家定本陣大黒屋があります。

24軒が旅籠を営んでいる内1件が大黒屋です、細久手宿の本陣・脇本陣が手狭になリ他領主との合宿を嫌った領主尾洲家が、問屋役酒井吉右衛門宅を尾州家本陣として定めたのが、尾州家定本陣大黒屋のはじまりであるそうです。

大黒屋の特徴は、軒廂付切妻造の2階建で両端に本卯建を上げ、2階が1階に比して目立って低いことは家の古さを示してます。
奥座敷前の緑東に安政6年(1859)12月6日清七・米9合の墨書銘が発見され、安政5年(1858)の大火類焼直後に再建された家であることが確証された、旅籠屋で年代の判明した唯一の例として貴重であるそうです。

細久手公民館・公衆トイレ 駐車場を過ぎて行くと高札場跡があり、その上斜面を登った所に庚申堂があります。

宝暦以来の小堂宇を寛政10年(1798)の宿中大火のあと、宿の鬼門除けとして享和2年(1802)に再建したものだそうです、御本尊は青面金剛像。

宿内はもちろん近郊の人や旅人からも、細久手宿のこうしんさまとして親しまれたお堂です、ここからは宿内が一望できます、境内には石造物が多く残っており300年余り前のものもあって当時の賑わいが感じられます。

そして道路を東へ進む(上り道)と一里塚があり大湫宿へと続きます。
JR瑞浪駅から約12km、中央道瑞浪ICから約10kmの距離にあります。

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