
中山道関ケ原宿は、中山道の宿場町と言うより古戦場の有る町と言った方が良いかもしれません、壬申の乱や関ケ原の合戦など、日本の歴史の分かれ目となった場所です。

中山道 古戦場の宿場①の西首塚から4西に向かいます。
西首塚は関ケ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚で、この上に江戸時代から十一面千手観音・馬頭観世音の堂が建てられ、付近の住民によって供養がされているそうです。

国道より南側に入り福島正則陣跡の案内があり、この辺り国道と違い閑静な場所で静かな街道な雰囲気が残ってます。
そこから少し行くと不破関跡があります、不破関は672年壬申(じんしん)の乱後、律令体制の整備に伴って設置されました。
天下の変乱に備え天武天皇はこの地に関所を置き、通行人を取り締まりました、不破関は愛発関・鈴鹿関と並んで、古代三関のひとつと呼ばれているそうです。

国道の北側に入ると若宮八幡神社があります、本社の創建は定かではありませんが若宮八幡社御緑記によると1320年に弘文天皇を祀り、1404年・1500年に社殿修繕したとあるそうで、 本殿は檜皮葺きの桃山様式で貴重な建造物です。

次に交礼場跡があります、関ケ原宿と今須宿の中間の位置にあり休憩施設の立場茶屋が設けられていたそうです。
江戸時代を通して、ここに高札場が設けられて、徳川幕府の庶民統治上の禁制品、法度、掟書などが掲げられ人だかりが見られる場所でありました。

西に進み街道から北に入ると常磐御前の墓があります、雑仕女の採用にあたり都の美女1,000人が集められその中で、1番の美女だったといわれている常盤御前後に、源義朝の側室となります。
今若丸・乙若丸・牛若丸(源義経)の3児に恵まれ、義朝が平治の乱で敗れ源氏がちりぢりになると、牛若丸が東国へ走ったと聞いた常盤御前は、乳母の千種とともに牛若丸の後を追いこの地にやってきました。

しかし、ここで土賊に襲われ命を落としてしまいました、それを哀れんだ里人がここに葬り塚を築いたのだそうです。
その後、母親を殺した土賊6人を、牛若丸が皆殺しにし、母の恨みを晴らしたという内容の絵巻物も残っているそうです。

そして今須峠、明治時代までは標高160mほどの急勾配のある坂道でありました、現在の整備された峠道の北側にある百万巻経の碑の前を通っていたとされています。
昔頂上辺りに茶店があり往来する旅人の疲れを癒す場所として賑わっていました、その反面冬場は積雪量も多く、旅人泣かせの難所となっていたようです。

近くには、今須村と関ケ原村の境界石標柱が建っていて、これを過ぎると今須宿に入っていきます。

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