
NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人で、墨俣町付近が舞台になった源平合戦墨俣川の戦いが描かれましたが僅かでした。
源平墨俣川古戦場・義円公園にある解説板によると。

養和元年3月10日(1181年)長良川をはさんで源平の大激戦が展開された。世にいう源平墨俣川の合戦である。同年2月4日平清盛病死す。東国源氏は勢を得て、京へ攻め上る。これを迎え討つため、平重衡を総大将として維盛・通盛・忠度・知度・盛綱・盛久等の武将七千騎杭瀬川を渡り、右岸の墨俣側(上下宿)に陣す。

一方源氏の将・行家(新宮十郎藏人)は千余騎を率いて左岸の羽島側(小熊)に着陣す。源頼朝は応援のため弟の源義円をつけ、西上させたが合流せず、二町隔てて軍を整えた。

義円は行家に先陣されては兄・頼朝に合わす顔がないと考え、唯一人馬に乗り、敵陣側の西岸にひそみ、夜明けとともに「義円は今日の大将軍なり」と名乗って先陣のさきがけをしようと、白む夜明けを待っていたところ、見廻り夜警兵に見とがめられ「兵衛佐頼朝の弟で卿の公義円という者だ。というが早いか勇敢に戦い、武運つたなく、力つき、平盛綱に討たれた。

源氏は戦利あらず、尾張源氏の泉太郎重光兄弟討死し、行家の子太郎光家兄弟は平忠度に捕らえられた。討死・溺死する者690余人に及ぶ。敗れた源氏は退き、矢矧川の東岸まで退き東国源氏の大兵来たると宣伝し勢を盛りかえして遂に平家を亡すことになる。

源義円は頼朝の異腹の弟で義朝の妾・常盤御前の子の義経と同腹の兄にあたる。幼名を乙若といい、天王寺に預けられていた。兄の挙兵を聞き、比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み、墨染の衣を来て鎌倉へ駈け付けたと思われる。
墨俣川合戦で悲運の生涯を閉じた。25才である。里人義円地蔵を刻み、堂を建て、毎年3月10日に供養を続けている。これより150米西に義円の墓がある。昭和56年3月10日800年祭が行われた。(源平盛衰記・平家物語・吾妻鏡)、と書かれています。

公園内には義円地蔵、供養塔、源平墨俣川合戦場碑が建てられ、供養塔には花が手向けられ地元の方により大切にされている様子がうかがえます。
解説板に有るように義円のものと伝わる墓があります、行ってみると「源義円の墓」とある案内板の先に、石の五輪塔があります、畑に囲まれるようにしてあり風化して丸みを帯びています、この墓は大垣市の指定文化財です。

岐阜県立大垣桜高等学校の南側です。

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