
正法寺(しょうぼうじ)と言えば、岐阜公園近くにある岐阜大仏が有るお寺を思う方が多いと思います。
岐阜にはもう一つ正法寺があります、また、「しょうほうじ」と読むお寺も岐阜市には存在します。

今回の正法寺は、廃寺となっていますが岐阜市指定史跡となってます。

案内板には、霊薬山正法寺は、十四世紀中頃、美濃の守護土岐頼康(よりやす)によって、革手城の北に建立された、禅宗法燈派の寺院である。
開山は、法燈派のひと嫩桂正栄(どんけいしょうえい)(勅諡号大医禅師)である。
十五世紀中頃には、諸山(五山派において五山・十刹につぐ寺格)であったことが確認され、多くの塔頭(たっちゅう)とともに、広壮な規模を誇った。

応仁文明の乱(1467~1477)により、一条兼良・雪舟等楊・足利義視などの当代一流の文化人や有力者が多くこの地を訪れ、文化の花が開いた。
明応四年(1495)船田合戦が始まると、正法寺は戦場となり、被害を受けた。その後、永禄(1600年頃)には、加納城築城のため、寺地内の土石が採取されたと伝えられる。
このように正法寺は、土岐氏の衰亡とともに衰微、現在は薬師堂が往古をしのばせるだけである。とあります。

また「美濃明細記」には、正法寺は信長の放火により永禄四年焼失したと書かれています。
斎藤義龍は、永禄四年五月十一日(1561)に卒去し、信長は美濃の動揺に乗じて美濃へ攻めてきています。
正法寺は、土岐氏が去ったあと頽廃(たいはい)していたとは思いますが、永禄五年には軽海合戦もあり、毎年のように信長は美濃へ侵攻しています。

岐阜公園近くにある正法寺との関連ですが、岐阜大仏の胎内仏として薬師如来像が安置されています。
この薬師如来像は、今回レポートした霊正山正法寺の本尊であり、平安時代の円仁(慈覚大師)作との伝承があります。
済美女子高の西、下川手バス停下車10分位。

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