
関ケ原町に2つの天下分け目の戦いがありました(以前のレポート)更に今年(令和4年)話題になった場所があります。
大河ドラマ鎌倉殿の13人で描かれるであろう、承久の乱(じょうきゅうのらん)の最大合戦場所が岐阜の各務原付近です。

承久の乱とは、1221年に起きた京都の後鳥羽上皇と、鎌倉幕府の執権、北条義時(鎌倉殿の13人の主人公・小栗旬)との間で行われたの戦いのことです。
1192年に源頼朝(よりとも)が朝廷から征夷大将軍の位を授かり、鎌倉幕府が正式に認められますが、実権はおもに関東地方を中心とする地域で、近畿や中国、九州北部の地域では幕府による支配は十分行き届いてはいませんでした。

京都を中心とする近畿から九州北部の地域では、朝廷とその事実上のトップである後鳥羽上皇が天皇以上に権力を握り、政治を行う院政を行った状態でした。
1219年に3代将軍の実朝が頼家の子・公暁に暗殺される事件が起き、これによって源頼朝の子供は居なくなってしまいました、幕府から政権を取り戻そうとした朝廷は幕府を倒す命令を全国に出し、こうして起きた戦いが承久の乱です。

鎌倉から京都までに戦いは起こりました、この日本を2分した戦いで、両軍の主力が激突したのが木曽川の前渡(まえど)でした。
木曽川をはさんで、各務原側に陣どった朝廷軍1万に対し、幕府軍は10万の兵のうち総大将の北条泰時(やすとき・義時の長男)らが木曽川を渡って攻め込みました。

戦いは幕府軍の圧倒的勝利に終わり、そしてこの木曽川の戦いが、乱そのものの勝敗も決めてしまいました。

昭和7年(1932年)の県道工事の際、再宮寺という小字地名が残っている矢熊山の西側から多数の五輪塔が出土したそうです、天台宗西宮寺に祀られていた塔が木曽川の洪水で寺とともに流されここに埋没したものと考えられます。
この時発見された五輪塔は、前渡地内の桃春院に集められましたがより丁寧にしようと有志の手によって佛眼院のある矢熊山(前渡不動山)に移されました。

五輪塔は、型式的にな特徴から多くは戦国・江戸時代にかけてく作られ、残りはそれ以前と推定されています。
承久の乱より後の時代のもので、後世の村人たちが承久の乱の戦死者を弔うため作ったものと思われています。

矢熊山の頂上には佛眼院があり、そこから南側には木曽川が見えます、その手前に各務原浄化センターがありその公園内に前渡の渡し跡があり、この一帯が戦場となった模様。

名古屋鉄道各務原線二十軒駅より南へ約4km。

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
岐阜のまちをのんびり歩いて楽しんでいただける、観光名所・岐阜のグルメスポットを普通のおじさんの目から案内します。
コメントを残す