
マップを見ていると笠松町の競馬場近くの堤防上にへそ塚と言うものがあった。
その場所は、魂生大明神(こんせいだいみょうじん)神社の中でした。

魂生大明神の略記には、木曽川奈良津提上にわが国でも著名淫祠(いんし)があり、世俗これを魂生(こんせい)様と呼んでいます、笠松陣屋正門前左側にあったがその由緒は不詳。
(淫祠邪教とは、国家権力ないし支配者によって、反体制的な傾向を持つとみなされた民間信仰、宗教のことで、異端・左道と類似した言い方だそうです)

元々はある美濃郡代が娘の縁談がないのを心配して、金精神の信仰がある陸奥国から男根の形をした石を取り寄せ縁結びの神として祀ったと伝わる。
明治になり陣屋は笠松県庁となり、廃藩置県により美濃国が岐阜県となると、岐阜県庁舎として使用される、この際も魂生大明神はそのまま祀られていました。

その後、笠松陣屋の建物を笠松学校(現笠松町立笠松小学校)に使用することとなり、教育上相応しくないという理由で、魂生大明神の祠は取り壊され、御神体は地中に埋められてしまいました。
この御神体を埋めた人物は程なく病死してしまい、このことから御神体の祟りという噂が流れ、掘り出し奈良津提に祀りました。

明治になり、この噂を聞いた東京~長崎の電信付設工事を行っていた工夫が、そんな祟りがあるはずないと御神体を地中から掘り出し、赤色の染料で塗りつぶしました、桑名に移動した工夫は病に伏せってしまいました。
祟りと考え、御神体についた赤い染料を取り除こうとしたが取れず、そこで石工に頼み、染料の部分を削り取ってもらうが、石工は病死し続いて工夫も亡くなりました。

これらの出来事から霊験あらたかなとの噂が花柳界に広まり、やがて全国に広まりました、現在の場所に移転した時期は不明ですが、鳥居の建立時期や当時の資料より、大正時代後期~昭和の始め頃と推測されます。
その神社の一角にへそ塚があります、縁結びの神様としても親しまれていて生命の源・愛情の源としてへその緒を預かり、子どもの成長と健康を祈願する碑です。

以前は、魂生大明神と同様に交通軍事の要所である笠松陣屋のすぐ脇にあり、当時はへそ塚と呼ばれた小さなお堂がありました。
しかし、陣屋移転の際に一度はなくなってしまいましたが、後に観光開発の一環として現在の形に再建されました。

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