
池田町の住居農地混同している場所に本郷城跡と書かれた小さな看板があります。
その奥に行くと、少し高くなっている所に大木があり、その下に案内看板と記念碑がありました。

池田町史跡本郷城跡、昭和32年11月11日指定、承和(834~847)頃、池田維実が居たとも言われてます。
南北朝期に土岐頼忠(とき よりただ)5代目美濃国守護(応永4(1397)年に没)が築いたとも言われているが、築城時期は明らかではない、頼忠は応永4(1397)年に没しているので、築城はそれ以前の南北朝時代と推測される。

土岐頼忠の子頼益も、のちに萱津(現愛知県甚目寺)に移るまでは父についで本郷城にいました。
土岐氏の家臣、豪族国枝大和守為助は土岐氏が本郷城を出た後に、ここを居城とした、為助は明応4(1495)年、船田合戦で兄弟5人と共に討死し、国枝氏は代々この城を居城としたそうです。

慶長5(1600)年、関ケ原の戦の時には国枝重元の弟修理亮政盛が城主であったが、西軍に属したため、東軍によって城も焼き払われてしまいました。

本郷城は二重の堀と土塁を巡らせた輪郭式平城で城域は不整形な台形で、東西116m、西辺149m、東辺68m程度の広がりを有してました。
地籍図にはよくその形態を遺すが、現在内内郭の櫓台を含む35m四方程が存在しているにすぎません、遺存部分は町の史跡として保存されています。

土岐頼忠とは、南北朝時代から室町時代の武将で守護大名・美濃守護(1390~1394)、土岐頼清こと頼宗(初代美濃守護土岐頼貞の子)の六男です。

土岐一族で戦国時代で良く名前が出て来るのは、頼忠より百数年後の土岐頼芸美濃守護(1519~1542)です。
土岐氏当主で兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となりましたが、後に重臣の斎藤道三公に追放されました。

本郷城の名称の城は日本各地にあります、ここは池田町本郷字北瀬古です。
養老鉄道美濃本郷駅下車北東へ徒歩約10分。

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