
天下分け目の関ケ原の戦いがあった関ケ原町にもう一つの戦いがありました。
壬申の乱(じんしんのらん)は672年に起きた古代史上最大の内乱であり、その内容は日本書紀巻二十八(壬申紀)の解釈によります、関ケ原町もその舞台となってます。
不破関資料館はその場所にあり、周辺には不破関跡・壬申の乱ゆかりの地があります。


壬申の乱は飛鳥時代に、天智天皇(てんじてんのう)の弟大海人皇子(おおあまのおうじ)と天智天皇の息子大友皇子(おおとものおうじ)のふたりが繰り広げた皇位を争った内乱です。
大化の改新と呼ばれる政治改革を進め、中央集権国家の建設を目指していた天智天皇が671年に崩御し、彼らが争うことになったきっかけは、その天智天皇のルール破りにありました。

当時の皇位継承については、親子より兄弟が優先されていましたが、天智天皇は個人的な愛情により大友皇子への皇位継承の意を表しました。

壬申の乱の戦場となったのは、現在の奈良県・三重県・滋賀県・大阪府そして岐阜県です、この際に桑名で大海人皇子が宿泊したとされる桑名郡家は今も天武天皇社として祀られています。
乱の結果天智天皇への反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱となりました。


673年に大海人皇子が即位し天武天皇(てんむてんのう)となり、その後、天武天皇は皇族を中心とした天皇政治を強化していきました。
壬申の乱は名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによるそうです。

天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を守る為に、不破関は壬申の乱後律令体制の整備に伴って設置されました、東海道の鈴鹿関・北陸道の愛発関とともに古代三関の1つとされています。


関の機能については畿内(滋賀県からは大和政権の支配下)に入る侵入者を阻止する目的であると考えがちですが、壬申の乱で大海人皇子が美濃・尾張で兵力を蓄えたことなどから、謀反者などが畿内から東国に逃れるのを防ぐ機能があったと考えられています。

不破関は789年に世の中が静まり、その必要性がなくなったため取り壊されたそうです、この関を境に関東・関西の呼称が使われるようになったともいわれています。


不破関資料館はJR関ケ原駅徒歩約20分、名神高速道路関ケ原ICより車で5分です。

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
岐阜のまちをのんびり歩いて楽しんでいただける、観光名所・岐阜のグルメスポットを普通のおじさんの目から案内します。
コメントを残す