慶長5(1600)年、岐阜県にて起きた関ヶ原の戦い。その結末は語るべくもなく、誰もが知るところだ。小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、その中で孤立状態となった大名がいた。薩摩の猛将・島津義弘である。既に負け戦が確定し、何万という敵の大軍が押し寄せるなか、彼の取った行動は、歴史に深く名を刻むことになる。
それは決死の「敵中突破」。迫りくる軍勢に対して果敢にも向かっていき、乱戦を抜け出して戦場から脱出を図ったのである。そこで用いられた作戦が「捨て奸」だ。捨て奸とは隊を分けて片方が全滅するまで戦っては敵を足止めすることを繰り返し、その間に本隊を逃がす戦法のこと。頭が逃げおおせるまで、壮絶なトカゲのしっぽ切りを何度も何度も行うのだ。そこまでしても、島津家にとって大将の薩摩帰還は責務であった。
というのも、この先間違いなく行われる戦後処理にあたり、首謀者から徳川への「言い訳」が必要となる。場合によっては お家存続の危機となる。それを回避できるのは島津義弘ただひとり。つまり義弘さえ生きて領地へ帰ることができたなら、それだけで島津にとって「負け戦」を回避できたのだ。さらに関ヶ原へ馳せ参じた兵たちは皆、義弘の忠臣。大将が死すれば武士の恥。文字通り決死隊となった島津勢の凄まじさたるや、東軍の福島正則が慌てて「追撃するべからず」と指示し、赤揃えで有名な井伊直政が敵を討ち取るどころか逆襲を受けて被弾するほどであった。
なかでも殿(しんがり)として獅子奮迅の働きをみせたのが、島津豊久である。
豊久は義弘の甥にあたるが若くして父を亡くしており、実子同然に可愛がられていた。さらに才覚を認められ関ヶ原参戦時も副将に命じられていた。恩を感じていた豊久にとって、この窮地こそ一番の「武者働き」であったのだろう。いまでいう大垣市上石津町の烏頭坂にて、豊久は反転に出る。先ず火縄銃による一斉掃射にて敵の最前線を足止めし、後続が怯んだところで刀に持ちかえ、敵集団に突っ込む。捨て奸の基本戦術である。豊久の戦いぶりはまさに鬼人そのものであり、多くの首級を上げたという。
さて、そんな豊久の最期だが、確たる文書が残っておらず定かではない。烏頭坂で討ち取られたとも、重傷を負いながらも義弘の後に続こうとしてその道中で息を引き取ったとも、自刃したともいわれている。享年31歳。いずれにせよ豊久の願いは成就し、義弘は無事に薩摩へ帰還することができた。そして迎えた徳川による戦後処理にて、破格の「お咎めなし」を勝ち取るに至る。とはいえ徳川にとって島津は警戒すべき「仮想敵」として残り続け、薩摩藩となった後もそれは続くのである。
なお、それから175年後に幕府の命によって行った木曽三川の治水工事にて薩摩藩士は幕府への恨みをさらに強めることになり、その100年後にとうとう倒幕を果たす。もちろん明治維新は複雑な時流があってのこと、恨みつらみで倒幕へ進んだ、とは到底考えられない。しかし「見ておれ徳川。たとえ何百年かかろうとも、必ず島津が倒す」決死の最中、豊久は散り際にそう誓ったのかもしれない。遠く離れているが、意外にも岐阜と薩摩は縁があるのだと思うと、実に興味深い。
かくして島津(薩摩藩)が徳川(幕府)を倒すのは、退き口から275年後のことである。






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