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タイトル | 岐阜城(2007年05月14日) |
投稿者 | そー |
関連コミュニティ | みんなで語ろう岐阜の事 |
本文 |
その名の通り、「岐阜」と言う字を冠したお城。 歴史的な流れを見ると、結構面白いなぁ…と思います。 全体的な流れは、Wikipediaより。 http://ja.wikipedia.org/wik... 1201年、二階堂行政が山の上に砦を築いたのが始まり。 15世紀の中頃、美濃の守護代であった斎藤利永がこの城を修復して、居城とする。 1525年、斎藤家の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃。長井家の支配下となる。 1533年長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。 1564年、斎藤家の家臣であった、竹中半兵衛重治と安藤守就が造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。斉藤龍興らは城を捨て、竹中らが城をしばらく占拠する。 1567年、予てから美濃攻略を狙っていた織田信長が木下藤吉郎の活躍により稲葉山城を攻略。信長は地名を岐阜と改め、城の名前も岐阜城とした。 1582年、城主であった織田信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斉藤利堯が岐阜城を乗っ取る。 1583年、羽柴秀吉に反発した織田信孝は、柴田勝家と呼応し、挙兵。落城する。 1583年から1591年の間、羽柴氏家臣の池田元助(元助が小牧・長久手の戦いで戦死後は池田輝政)の居城となる。 1600年、城主であった織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し、石田方につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城。 江戸幕府が成立すると、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に十万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城の櫓などは加納城に移されたという。岐阜城が山城であることに加えて、家康がかつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだとも言われている。 1910年、模擬の城が再建されるが、1943年に焼失。 1956年、鉄筋コンクリート建築で岐阜城を復元。地理的展望がすばらしい観光名所として有名になる。 1997年、大改修が行われる。 城と言えば天守閣が先に頭に浮かぶかと思いますが、岐阜城の天守閣については、下記サイトの考察が興味深し。 http://www.geocities.jp/pap... さて岐阜城には全く天守が存在しなかったのかというと、そうではなく、秋田氏は池田輝政の時代、もしくは信長の嫡男、信忠が岐阜城の城主になった時のどちらかの時代には存在したのではないかと考えておられます。 信忠が岐阜城の城主になった時というのは、信長が安土城に移った後ということです。 なぜ、そのように考えられるかは、『中嶋両以記文』には、 「池田三左衛門殿御在城ニ成、因幡山ニ天守御上ケ、次ノ檀ニ御殿・御台所其外出来之由」と記されているということがまずあげられます。 それに信長が安土城に天守を築造したあと、二男の信雄が松ヶ崎城に、三男の信孝が神戸城に、それぞれ天守を築いているので嫡男の信忠の岐阜城でも天守の築造が行われても不思議ではないと考えられるわけです。 その池田輝政の時代に建てられた天守は織田秀信に受け継がれ、関が原の合戦で落城したおり、慶長6年には岐阜城が破却されたのを機に加納城へ移築されたといいます。 このときの天守は一般に「御三階」と言われ、享保13年に落雷により焼失していますが、焼失した後に旧状が立面図に残されてありました。(加納町史、原本は不明となる) また、中嶋至氏が、池田輝政がその後姫路城を完成させていることなどから、岐阜城天守は姫路城天守と共通する部分が多い、と主張し推定復元された図面なども発表されています。 |